2009年7月22日水曜日

ナニーは世界一の姑

「おばあちゃんと呼ばないで!」と姑が言うので、我が家では彼女をグラニーではなくナニー(Nanny)と呼ぶ。そして私は「ナニーは世界一の姑だ。」と思い込むことにしている。

よく「愛するだんな様を生み育ててくれた人だから大切にして。」と小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことを言う人もいるが、うちの夫は自己中でわがままだから、夫とけんかして頭にくると「どんな育てられ方をしたんだよ!」とか「こいつは失敗作だ」と思ってしまう。だから「愛するだんな様」と言われてもまったくぴんと来ない。「姑が放任したせいだ」「姑は細かすぎる」「姑の期待が高すぎる」と思ってしまうのが正直なところである。

でも、元来が怠慢でめんどくさがり屋の私は、姑のことであれこれ思い悩むのはかったるいし時間がもったいないので、「私の姑は世界一。」と思うようにしている。

*************************************************

客観的に見てナニーは「すごい!」と私も思う。兄二人は名門大学に通わせてもらえたが、彼女はいわゆる「フィニシング・スクール」(花嫁学校)しか出ていない。それでも、今では自分の小さな会社を経営し、一年中飛び回っている。

いろいろな学習障害が知られている今でこそ、自分がADDで多動児だったから学校の成績が悪かったのだと理解できるが、そのころは兄弟の中で自分が一番だめなんだと思っていたという。それでも、ADD でじっとしていることができない性質だから、自力でいろいろな知識やスキルを身に付けた。舅と結婚する20代後半にはりっぱなビジネス・ウーマンになっていた。

長男である夫が生まれて1年間は、育児と家事に専念したものの退屈でしかたがなく、再びビジネスの世界にもどった。舅が弁護士だったので一応生活には困らなかったのだが、いくつかのビジネスを立ち上げては、それをつぶすか売るということを繰り返した。しかし、郊外の大きな家を購入してまもなく彼女の夫はがんで亡くなった。大学に入ったばかりの長男、中学生の長女と家のローンと多額の医療費。彼女は家を叩き値で売り、借家に移り、夫が子供の教育費にと貯めていたものだけには手を付けまいとがんばった。就職、解雇などを繰り返し、結局自分で再びビジネスを立ち上げた。それが今の高級シルクジャケットのビジネスである。子供たちが「ナニーのスクールバス」と呼ぶ巨大バンに乗って全国を走り回り、はては海外までにジャケットを売りに行く。ナニーはすごいのだ。


姑は我が家に来てもじっとしていることができない。それにきれい好きの姑は埃などを見ると、うずうずしてくるのだろう。「掃除はしなくても死なない」というスローガンの我が家は部屋の隅にダスト・バニー(埃の玉をうさぎに見立てるアメリカ人に、月にうさぎを見る日本人をばかにする権利はない)が何匹も隠れているし、台所に油汚れがこびりついているし、バスルームの鏡にも歯磨き粉が飛び散っている。そこで彼女は家に来ると、お掃除ウーマンに変身するのである。最初の頃は私も姑のあとをついてまわって「すみません。すみません。」といいながらいっしょに掃除したものだが、もうこのごろは勝手にしたいことをしてもらって、私は台所に引っ込んでいる。

ただ、困ったことに彼女はちょっと張り切りすぎる。先日、お手洗いで何やらやっているなと思っていたら、「ジュンコ〜」と少し猫なで声で呼ばれた。行ってみると、便器掃除ブラシの柄を持って立っている。「どうかしましたか。」「便器掃除していたら、力入れすぎてブラシが折れてしまったの。ごめんね〜。」「、、、、いいですよ。ブラシくらい。もうここはそのくらいにして、お茶でもしましょう。」

お茶のあと、今度はキッチンに入って掃除を始めてくれた。ガスストーブ、水回りと次々手際よく磨き上げて行ってくれた。しばらくして、「ジュンコ〜」とまた声がした。行ってみると今度は電子レンジの前に立っている。「ごめんね〜。電子レンジのボタンを掃除してたら、壊してしまったみたいなの。新しいの買ってあげるわね。」ボタンをごしごしやりすぎて制御装置が壊れてしまったのである!「気にしないで。しばらくほっておけば直るかもしれないし。あとで、ザックに見てもらいましょう。」と言って台所から立ち退きをしていただいた。やれやれ。その後は草むしりをやらせてあげた。

*********************

そんな姑が、2ヶ月ほど前にものすごい決心をしたのである。

もう学校も終盤に入り、そろそろ夏という時に、普段は月に2回ほどしか電話で話さない姑から週に1、2回くらい電話がかかってくるようになった。そして、いつもは一人で1時間くらいは軽くしゃべりまくる人なのに、こちらの様子を伺ってしばらく世間話をしたらもう電話を切るようになった。それが3週間くらい続いた時に夫が「お母さん、一体どうしたんだ?」と問いつめたところ、電話の向こう側で泣き崩れて事情を説明してくれた。

手短に言うと、自分の娘、夫の妹と絶交したというのである。

義妹は現在35歳。ちゃんと名門大学を出て、イギリスで修士も取った才媛である。「作家」志望で、いろいろエッセイとか書いて雑誌などには載せてもらっているものの、それだけでは生活は成り立たない。そこで、いろいろなアルバイトで食いつないでいる。ところが、小さい頃から甘やかされて育ったものだから、金銭感覚が余りない。お金がなくなって困っても、母親がいつも助けてくれるものだから、お金を貯めておこうとか、今月は$100のナイト・クリームを買うのはやめて$10ので我慢しておこうとか考えないのである。

私も夫には非常に厳しい姑が、自分の娘にはとても甘いのは知っていたが、私の関知すべきことではないと考え、口を挟んだことはない。夫もしかたがないと思っている。

そんな妹が姑からお金を「ちょろまかした」のである。そして、そのお金でボーイフレンドと海外旅行に行ったものだから、姑は怒った。(これは姑の話であるから、100%正確かどうかはまだ分からない。)そしてEメールで自分の娘をしかった。

ところが、妹はそれに反逆した。詳しい内容は知らないし、知りたくもないが、とにかく姑がなんとひどい母親かということを綿々と書いてよこし、あげくのはてには「あなたみたいな人の娘に生まれて来たくはなかった。」というようなことを書いた。

姑は非常にショックを受け、返事を書こうにも何を書いたらいいか分からず、怒りと悲しみと悔しさで身も心もずたずた。悶々とする毎日の中であと唯一の家族である我が家に電話をして、私たちの声を聞くのを慰めにしていたのである。

1時間ほど思いっきり泣いた姑は、最後にこう言った。「私は、あの子を今でも心から愛している。たった一人の娘だもの。でも、もう私はあの子にはいっさい援助はしない。今回のことで、私がいかにあの子をだめにしてしまったかを思い知った。これは自業自得。あの子が自分の書いたことを振り返って、お母さんに悪いことを言ったと思って謝って来るまで、もう私も一切連絡は断つ。」と言ったのだ。

そして、それを実行に移して2ヶ月が経った。

不思議なもので、普段あまりやりとりのない義妹もここ2ヶ月の間に何回か我が家に立ち寄って行った。母親とのけんかのことは何も言わないが、やはり少しは不安なのだろうかと思ったりする。

2、3日まえに姑と夕食を一緒にした時に、「1週間ほど前に立ち寄ってくれたけど、元気そうだったよ。」と報告すると姑は涙ぐんで「そう。よかった。でも、あの子がちゃんと謝って来るまでは、私は連絡は取らない。たとえ憎まれて死んでも、あの子にはちゃんと自立できるようになってもらいたいから。それが私の母親としての役目だから。」と言った。

私の姑はすごい。

2009年7月20日月曜日

オーペア

うちはオーペアなしではサバイブできなかった。子供たちが生まれて小学校1年生になるまでは、オーペアのおかげでアビューザ家はなんとかサバイブしたのだ。

オーペアとは?アメリカの家庭で家族の一員として住み、子供たちの世話をしながら英語を学び、アメリカ文化に触れるために、1年から2年間渡米する外国人の若者だ。政府が承認しているいくつかのエージェンシーを通して、世界中からやってくる住み込みベビーシッター・お姉さんたち(ほとんどが女子)。うちの子供たちはこの女の子たちのおかげで元気に育ち、私たち親は安心して仕事を続けられた。

アメリカの保育園はかなりお金がかかる。1歳以下の乳児の場合、9年前でも最低1ヶ月$900した。うちは双子だからその2倍。2人目からは割引が利くところもあるが、そういうところはもともとの値段が$1200と割高である。それに、これは9時から5時までのお値段だから、延長保育をしてもらうともっとかかるのである。だから、アメリカの共働きの家庭で2人以上子供がいたら、オーペアに来てもらった方が割安になる。

当時、オーペア・エージェンシーにはプログラム費(航行料、保険、手数料など)約$6,000を払い、オーペアには週$135ほどをお小遣いとして渡すシステムになっていた。オーペアは週に35時間まで子供の世話をするのが仕事で、その他は英語の授業をとったり、家族とすごしたり、家事を手伝ったり、友達と遊びに行ったりする。いっしょに住んでいるので、子供が病気をしても親は安心して仕事に出かけることができる。

オーペアの選考基準はきちんと定められており、あらゆる書類の他、個人面接の記録なども渡され、それを見て候補を決める。ホストファミリーとなる私たちも書類を整え、保証人を見つけ、係の人が家庭訪問にやってきた。候補者と電話やEメールなどでやりとりをした後、お互いに「これはいける!」と思ったら契約が結ばれる。まるでお見合いだ。そうして、私たちは5人のオーペアのお世話になった。

***********************************

「コーコ」
一人目のオーペアは日本人のれいこさん。なぜか子供たちには「コーコ」と呼ばれていた。生後3ヶ月目に私も職場復帰したので、二人の乳児の世話は大学を卒業して間もないコーコがしてくれたのである。

若いのにとてもしっかりした女の子で、子育て、家事を完璧にこなしてくれた。離乳食もすべて手作り。私がつい甘えて残業続きになると、「赤ちゃんでもお母さんとのスキンシップが必要なんですから、たまには早く帰ってきてあげて下さいね!」としかられたりもした。コーコに言われると私も「はい。すみません。」と言わざるをえない。

家に帰ってくると「今日は妙ちゃんが10秒くらいおすわりしましたよ〜」と報告してくれる。妙ちゃんの最初の一歩を目撃したのもコーコだ。そして、チャーリーの手を取って歩く練習をさせてくれたのもコーコだ。私の愚痴を聞いてくれたのもコーコだ。

「ウナ」
次に来てくれたのはコーコの妹のゆうこさん。なぜか子供たちには「ウナ」と呼ばれていた。ウナは子供たちに幼児手話を教えてくれた。そういうものがあるということさえ知らなかった私。「ちょうだい」とか、「お風呂」とか「ミルク」を手話で伝えれるようになった子供たちを見てびっくり。

ウナが我が家にいた年に大事件が2つ起きた。一つは911テロ、そしてもう一つは親友デーナの事故死だった。

ニューヨークに住んでいた頃、父のオフィスは双子ビルの中にあった。父と二人暮らしだったので、よく学校帰りに父のオフィスに寄り、いっしょに家に帰ったものだ。日本からお客様が来ると必ず双子ビルの展望台に上り、レストランで食事をした。1階にあった本屋さんはアート関係の本をよくセールに出していたので、いつも立ち寄っていた。耳がぼわーんとなる高速エレベーター。オフィスの天井から吊るしたユーラユーラと揺れる振り子。(父の同僚が「こんなに高いビルは揺れるように作ってあるんだよ。そうでないと、地震の時にボキって折れてしまうんだよ。」と安心させようとしてくれた。)巨大な地下駐車場。すべてが目の前のテレビの画面の中で燃え、崩れ落ちて行く。同僚といっしょに教室のテレビの画面を呆然と見ていると、テレビの画面に急に一角から煙の出ているペンタゴンがうつる。女子教職員はみんな泣き出し、男の人たちの中にも必死に涙をこらえている人が数人いた。

テロに使われた飛行機の1機がボストンから出たということもあり、ボストンはぴりぴりしていた。数週間はほとんど外に出ず、始終頭上でヘリコプターや軍用機の飛ぶ音が聞こえていた。学校も緊急体制を整え、テロに備えた。緊張の休まることのなかった1ヶ月。

親友のデーナがハーバード大学近くで自転車事故に遭い、即死したという電話が入ったのはアスファルトが足の下でぐにゃりとなるほど暑かった7月2日。遠距離に住んでいる彼女の夫からの電話だった。

テキサスに住んでいるデーナの母親が取り乱しているので、まず彼女の実家に寄ってからボストンに行くのでかわりに警察とやりとりをしてほしいということだった。結局その夜から3日間ぶっとうしで、警察とのやり取り、遺体確認の手続き、葬儀を行う教会への連絡、彼女の知人友人への連絡など、主のいなくなった彼女のアパートに泊まり込んでした。

大学院の博士課程で勉強していた才女。30以上のフルマラソンを完走したスポーツウーマン。単独でアラスカの大地をカヤックで旅した冒険好きのロマンチシスト。自分が女性であることを誇りに思っていたフェミニスト。そして何があっても必ず味方になってくれた親友。その親友を亡くして5日間はショックで何もできなかった。仕事にも行けなかった。子供のことも考えることが出来なかった。夫は東南アジアへ長期研究に出ていて、連絡さえ取れない。そんなとき、ウナは「子供たちは私が見ててあげるから、帰って来たい時に帰ってきていいよ。」と言ってくれた。ラッキーなことに、その時たまたま「ウナママ」(ウナのおかあさん)が遊びに来ていて、二人で子供たちを見てくれた。

数日ぶりに家に帰って来ると、子供たちが笑顔いっぱいで出迎えてくれた。子供たちの顔を見たら、また涙が出てきた。デーナは子供たちのことをとてもかわいがってくれていたからだ。あれから7年たった。

「イルゼ」
その次のイルゼは北欧のラトピアから来てくれた。にんじんが大好きで、毎日2−3本ばりぼりとアメリカ漫画のバックスバニーのように食べていた。子供たちもそのまねをして、毎日1本ずつばりぼりと生のにんじんを食べるようになった。

寒い国の出身だけあって、冬が大好き、雪が大好き。そして、自然が大好き。どんなに寒かろうと、毎日子供たちを乳母車に乗せて外へ連れて行ってくれた。零下15度くらいになってまさか今日は外には出てないだろうと思っていた日も、帰ってみると「ほっぺたにワセリンたっぷり塗って、しっかり厚着して、除雪された車道を通って散歩に行った。」と言うのでぶったまげた。(あとから調べてわかったことであるが、ワセリンを塗っても凍傷は防げない。)あとで写真を見せてもらうと、たしかに子供たちは大変な厚着をさせられているためころころで、腕が上がったまま、かかしのようにして立っている。子供たちは雪を食べることを学び、新雪の上にスノーエンジェルを作ることを学んだ。

一つだけ困ったのは彼女の料理のレパートリーが非常に狭いことであった。お肉、ジャガイモ、タマネギとにんじんを使ったシチューしか作れなかったのだ。多分、家ではそれくらいのものしか食べていなかったのだと思う。電子レンジや全自動洗濯機は、うちに来て初めて使い方を学んだくらいだから。

「コイ」
イルゼの次は、やっぱりお米を主食とする国の女の子にしようと、タイから日本語の勉強もしたことのあるコイに来てもらった。

とても華奢なコイに2人乗りの乳母車は押せなかった上、運転が嫌いだったので、子供たちはどこへ行くにも歩いて連れて行かれた。コイは大のアート好き。毎日子供たちといっしょに絵を書いたり、クラフトをしたりしてくれた。妙ちゃんの芸術的才能はこの時に開花し始めた。毎日画用紙5枚から10枚にすばらしい絵を描くのである。この頃に描いた絵2枚は今でも額に入れて、テレビルームに飾ってある。この時の「作品群」の量はすごいもので、いいものだけを取ってあるのだが、ポートフォリオ3冊とプラスチックのケースひとついっぱいに入っている。いつの日か仕事から引退した時に引っ張りだして整理しようと思っている。

コイには、ひとつかわいそうなボストン逸話がある。

ある夜、魔女狩りで有名なセーラムから帰ってきたコイが「ちょっと聞きたいんですけど。」と少ししょんぼりして言ってきた。話を聞くと、見も知らぬアメリカ人が彼女のかぶっていた野球帽を指差して「よく、そんなものかぶっていられるね。」と言ったというのである。それが、初めてではなく、過去にもボストン市内で2回ほどその野球帽を指差して何か言われたという。その野球帽とやらを見せてもらうと、何とNYヤンキースの野球帽だったのだ。ボストン・レッド・ソックスとニューヨーク・ヤンキースは阪神巨人と同様宿敵、ライバル。「そりゅあ、だめだわ!」と私も思わず笑ってしまった。

オーペアは全員アメリカに到着してまず1週間の研修が義務付けられている。コイはニューヨークでこの研修を受けてきた。その時に買った野球帽が、ヤンキースのロゴ付だったのだ。彼女はニューヨークのお土産のつもりで買ったものが、実は野球チームのロゴだとは思いもしなかったのである。遠いバンコックから来た女の子が、アメリカの野球のことなど知っているはずがない。

真相を知った彼女はほっとして、野球帽はバンコックに帰るまでしまっておくことにした。

「ミーコ」
その次の女の子もタイから来たミーコである。タイのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業したミーコは、勉強好きの家庭教師タイプ。ミーコは子供たちにタイ語を教え、夫のためにタイ語の資料を英語に翻訳してくれた。今でも、私の姑のシルク・ビジネスをサポートしてくれている。

タイの女の子たちは信心深く、家族との繋がりも深い。料理や家事もすでに母親にかわってしている子が多かったから、料理も上手だった。週末はタイ人の集まるお寺へ行き、その他は私たち家族と過ごす時間が多かった。たまにタイ人のオーペアたちがうちに集まって、キッチンの床に座り込んでぺちゃくちゃとおしゃべりしながらタイ料理を作ってくれた。わたしもグリーン・パパイヤ・サラダの作り方を教えてもらった。

コイとミーコがいっしょに住んでくれていた時にはいつも家の中がタイ米のいい香りがしていた。仕事から帰った時にお米が炊けているというのはとってもうれしいものだ。彼女たちが帰った後も我が家では、必ず日本米とタイ米を置いておかずによって使い分けている。私が作るカレーは日本のルーにココナツミルクを入れ、タイ米を使う。

**************************************

振り返ってみると、我が家はとてもラッキーだった。

オーペアはみんなとてもいい女の子たちだったし、みんなそれぞれ違う、素晴らしいものを子供たちにプレゼントしてくれた。母親の私がつきっきりで子供たちの面倒を一切見ていても、あの女の子たちの5人分の才能と献身とエネルギーにはかなわなかったと思う。現在もまだ5人とは連絡を取り合っている。2年前にはタイに行って、コイとミーコに会ってきた。コーコはもうお母さんになっている。ウナは結婚し、イルゼも婚約した。みんなきっとすばらしい女性、お母さんになると思う。

子供たちも小学生になり、学校の延長プログラムに参加するようになってから、オーペアは必要ではなくなった。去年は近くの保育園で働くジャスミンおねえさんがいっしょに住んでくれて、私と夫だけではカバーできない部分を手伝ってくれた。日米ハーフ(ダブル?)のジャスミンは日本語もできるので、子供たちの英語の宿題も日本語の勉強もみてくれた。同じく2つの国のもとで生まれ、2つの文化を上手に融和させているジャスミンから、日本の文化もアメリカの文化もどちらも素晴らしいのだということを学んでくれたと思っている。そのジャスミンもこの秋から大学院で教員になる勉強をするため、家から出て行く。

いよいよ、我が家も自分たちだけでサバイブできるか??

いやいや、情けないことに実際には自分たちだけでのサバイブは不可能なんです。近くで、また遠くで私たちのことを助けてくれて、サポートしてくれる人たちのお陰で、アビューザ家はサバイブしています。皆様、どうもありがとうございます。

2009年7月17日金曜日

コミュニティー・サステインド・アグリカルチャー

「地域支援農業」とでも訳せばいいのでしょうか。普通 Community Sustained Agriculture - CSA と呼ばれ、こちらではかなり定着してきている。簡単に説明すると、農家と消費者が年間契約を結ぶのだ。これは地元の農業を守ると同時に、消費者としては質の高い新鮮な食べ物を購入することができる。ほとんどの CSA は無農薬農家である。

イプスイッチの町にはアメリカで最古の連続経営農場アップルトン・ファームがある。アップルトン氏はイプスイッチを植民地化した最初のグループの一人としてこの土地にやってきた。その農場は近年、地元の非営利団体に寄付され、新たに地域支援型無農薬農場として経営されることになった。

年会費(シェア)$600で6月上旬から10月下旬まで、毎週1回農作物をブラウンバッグいっぱいもらえる。だいたい野菜をたくさん食べる5人家族が1週間食べれるくらいの量である。無農薬、ホルモン剤不使用の飼料で育てられている牛もおり、牛肉も別に買うことが出来る。時々、ガーリック・フェスティバルとか収穫祭などのイベントもあり、会員同士の交流も楽しい。

実は、うちはここの会員になるために3年間もウエイティング・リストにのせてもらって待っていた。去年とうとう夫が我慢しきれずに「アップルトン・ファームなんてくそくらえだ!いつまで待てばいいんだよ!じぶんで畑つくってやらあ〜!」(子供には聞かせれないような英語で息まくった)と言って裏庭の芝生を掘り下げ、5m x10mくらいの大きさの畑を作ってしまった。そこにはトマト、豆、レタス、ズッキーニー、ガーリック、なすび、キャベツなどの他に葉っぱをみただけでは何なのかわからないものがいっぱい並んでいる。畑は夫の管轄下なので、私にはよくわからないのである。

我が家では毎年5月の母の日の週末が「畑開き」と決まっている。毎年4mx5mくらいの小さい畑にトマトや豆などをこじんまりと植えていたのだが、去年からは夫と子供たちで丸2日費やして畑の準備をして種をまいたり、苗を植えたりした。5月と6月は畑の世話がかなりハードだが、ある程度作物も大きくなるとあとは楽だ。

そんなとき、アップルトン・ファームから「あなたの番が回ってきました。来週から収穫がはじまりますので、記入した申し込み用紙と入金をお願いします。」との連絡が入ってきた。

うちの畑だけでもかなりの収穫があるので迷ったのだが、ここで辞退すると今度加入したい時にまた数年待たされる。子供たちもこれからどんどん食欲が増してくることを考えると、加入しておいた方がいいだろう。それにうちは秋野菜は作らないので、それもほしい。ということで、同じ町に住む牧ちゃんち(ベビーを入れて3人家族)と雅代ちゃんち(彼と二人暮らし)とでシェアを分けることにした。我が家が50%、牧ちゃんと雅代ちゃんはそれぞれ25%分のお野菜をもらう。

今の時期はレタスや人参、水菜、白菜、ボックチョイ、スイスチャード、他さまざまな根菜、葉っぱのお野菜が並んでいる。スーパーでは買えないもの、見たこともないようなめずらしいお野菜もたくさん並んでいる。その日の朝採れたばかりのぴちぴちの野菜だ。その中から自分のほしいものを袋に詰めて行く。

自分のシェアを取りに行くたびに、自分で収穫できるものもある。たとえば、先週はいちご取り放題、今週はまめを1クオートと花10本。畑に出て行き、収穫する。たかが2、30分のことなのだが、暑いし、腰は痛いしで結構大変だ。お百姓さんは本当に大変なんだなあと身をもって感じる。こどもを連れてくる人も多く、たいていの子供たちは自分でむしった生野菜をばりぼり食べながら親のあとにくっついて歩いている。

自分で育てた野菜を食べるのはうれしいものだが、それを家族や友達に分けてあげたり、ごちそうしたりするのはより楽しい。

でも、一番楽しいのは雪の降り積もる真冬の1月くらいに、夏の終わりに瓶詰めにしたトマトソースやジャムを開たり、ペスト(バジルで作った「夏の香り」のするペースト状のもの)を解凍したりして、つかの間だけ夏を懐かしむ料理を頂く時だ。我が家は燃料費を節約するために、ダイニング・ルームでは薪ストーブを使っている。その上のヤカンがしゅんしゅんなっている中で、夏の香りの食事をすると、「この寒さもあと3ヶ月の辛抱」と自分に言い聞かせて長い冬を乗り切るのである。

2009年7月12日日曜日

毎日のサバイバル

もうすぐ新学年が始まる。うちの妙ちゃんとチャーリーはいよいよ小学4年生、もう高学年だ。「あの超未熟児だった子たちが」と思わず涙ぐんだりはしないが、やはり「いつの間にこんなに大きくなったんや〜!」という戸惑いはある。

多分アメリカではどこでも同じだと思うのだが、イプスイッチの町では小学生の間は子供は大人が付き添わなくては何も出来ない。日本みたいに児童だけで登下校など想像もつかないのだ。学校の行き帰りはもちろん親が送り迎えをするか、行きはスクールバスに乗せて帰りはバス停で迎えてあげなくてはならない。帰りのスクールバスのお迎えに遅れようものなら、子供はバスからおろされずにそのまま、また学校に連れ帰られてしまう。うちは共働きなので子供の登下校時には家にはいない。そこで学校のExtended Day Program 延長プログラムに入れている。二人あわせて毎月$600ほどかかるのだが仕方がない。朝は7時から夕方は6時まで預かってくれる。希望者には朝ご飯も食べさせてくれるし、午後には宿題を手伝ってくれたり遊んでくれたりする高校生のおにいさんやお姉さんたちもいる。

朝は子供たちをたたき起こして7時ちょうどに学校に連れて行く。これで何とか私は8時15分までには職場に到着できる。問題は帰りのピックアップである。夫と私のどちらか早く家に帰れる方が迎えに行くのだが、これが結構きついのだ。6時を過ぎると、1分につき$5の罰金が科せられる。必死で車を走らせて5時58分や5時59分にたどり着いたことも何回かある。そんな時にはきれいに片付いた、だだっ広い食堂で二人がぽつんと担当のミセス・グービーといっしょにうらめしそうな目をして待っている。実はどうしても間に合わなくて、事前に学校に名前を登録してある「信用出来るピックアップ可能人間」の友人にお迎えを頼んだことも数回ある。お迎えに間に合うか間に合わないかのハラハラドキドキですでに寿命は数年縮んでいるのは確実だ。子供たちが知らない間に大きくなって行くのは少しさびしいけれども、早く中学生になってくれたら自分たちだけで登下校できるので楽しみ!

家に帰ったら帰ったで、晩ご飯の用意がある。これは全世界の働く親の悩みの種であろう。とにかくおなかをすかせた子供たちに15分以内で用意出来るものが必要である。昔はちゃんと毎日栄養のバランスを考えて毎食タンパク質、お野菜、炭水化物などと気を使っていたが、それがかなり私のストレスになっていた。ある日、医者である友人にそのことを愚痴ると、「食事なんて週単位で考えればいいのよ。1週間でバランスが取れてればいい。気になるんだったら子供には毎日子供ビタミン剤を飲ませておけば最低限の栄養素はカバーできるから。」(これって、すごくアメリカ的?)と言われ、なるほどと少し気が楽になった。

ところが、最近の私はより大胆になり、年単位で考えるようになってしまった。夏には夫が魚釣りをするということもあり魚をよく食べる。また、家の小さい畑で野菜がたくさん出来るし、近くの有機農場の会員にもなっているので野菜をがんがん食べる。ところが、冬になると野菜と言えばブロッコリーとかグリーンビーンズ、冷凍野菜になってしまう。魚も週1回配達してくれる日だけであとはお肉が多くなる。昔なら気になって悩んでいたと思うのだが、もう今は「ま、夏になれば今の野菜不足は補えるから。」などと暢気に構えている。(これはまったく科学的な根拠に基づいていませんので、まねをすることはやめましょう。)

我が家では週末は一応ちゃんとしたものを作って食べているので、たいてい月曜日は残り物でなんとかなる。火曜日まで何とかなる時もあるのだが、たいていはスパゲッティーをゆでてカン詰めのパスタソースを暖めて食べる。水曜日は残り野菜とお肉の炒め物、木曜日は配達される魚をオーブン焼き、金曜日は鶏の唐揚げという感じでなんとか週末にこぎつける。

私と子供たちはカレーが好きなのだが、夫はきらいなので夫がいないときにカレーを作る。カレーなどシチュー類は前の晩疲れてなければ、スロークッカーに材料を切って入れておき、次の日の朝にスイッチを押すと、4時間後、6時間後、8時間後と時間設定した時に出来上がっているので、便利である。この時もどんと作っておいて2日続けてカレーを食べる。いや実を言うと、3日続けて食べる時もある。そんな時にはさすがにカレー大好きのチャーリーも「また今晩もカレーなの。3日も続けてカレーなんていやだよ。」「カレーは体に一番いい料理なんだよ!お肉も入っているし、お野菜もはいっているし。世界中で餓死している子供がたくさんいるんだから食べ物で文句いわない!」とむりやり食べさせる。以前ドラマで「今日のシチューは明日のカレー。明日のカレーはあさってのカレーコロッケ。」とお母さん役の人が自分の娘に言っていたけれども、そこまで頭と体がまわらないんですよね。でも、最近は少し賢くなって、1日目にはシチューとして食べて、2日目と3日目にカレーとして食べるようにしています。へへ、、、