今年の夏休みは6月18日から始まった。我が家の子供たちは5月には半成人(10歳)になり、無事4年生を終了し、いよいよ9月には小学校最高学年の5年生になる。
オーペアがいなくなってからの数年は、6,7月は住み込んでくれるベビーシッターのお姉さんたちと過ごしたり、日帰りキャンプに行ったりしていた。8月は夫が子供たちといっしょにメインの森にこもる。ところが、今年は10歳になったのを機に、スリープオーバー・キャンプ(泊りがけキャンプ)に入れることになったのだ。それも4週間!!初めて、本格的に巣立ちの練習をするのだ。
アメリカでのサマー・キャンプの歴史は古く、友人の中にはいい年した大人になっても「私のサマーキャンプは私のセカンド・ホーム」とか「サマー・キャンプで私の人格が形成された」と言う人もいれば「サマーキャンプは将来の人脈つくりのファースト・ステップなのよ」と怖いことを言う人もいる。それだけ、お泊りのサマーキャンプは子供時代の重要な位置を占めることが多いのである。親子5代で同じキャンプに行ったと言う家族もいる。
だから、キャンプ選びは大変だ。キャンプが始まるのは6月下旬。何とその前の年の10月ころから受付が始まり、有名なキャンプだと1月にはもう締め切っていると言うのである!キャンプと一口に言ってもいろいろ。スポーツがんがんキャンプ、クラシック音楽の勉強をするキャンプ、ダンス・キャンプ、野外活動型キャンプ、アート・キャンプ、肥満児ダイエット・キャンプ、コンピューター・キャンプ、受験キャンプ、ロボット・キャンプ、延々と続く。
我が家も11月ころからぼちぼち調べ始めたりはしていたのだが、いつものことながらだらだらとしていたら、3月くらいになって女の子はまだ空きがあるけれども、男の子はもう締め切りましたとか、満員になったので誰かがキャンセルしたらお知らせしますなどと言われ始めて慌て出した。
切羽詰ったときの人間の心理とは怖いものである。だいたい、なかなか決められなかった原因の一つにはお泊りキャンプは非常にお高いと言う現実があった。大抵4週間で一人$4,500 ~$4,950(40 万円から45 万円くらい)。全て込みとはいえ、2人で$9,000 (90 万円!!)でも、お高いキャンプほど定員になるのが早く、どんどん締め切っていく。そうなってくると、あせりだして$4,300 のキャンプがそんなにお高くないような感覚に陥ってしまうのである。
我がだんなと相談したら「いいキャンプはそんなもんだろう。仕方がない、おばあちゃんに援助してもらおう。」と言うことになった。姑は前から「お泊りサマーキャンプにそろそろ行かせないと駄目よ。費用は援助してあげるから」と言ってくれていたから、腹をくくって電話をした。
「え~!!うっそ~!!(英語では”You are kidding!!")二人で1万ドル!!」と姑もぶったまげている。姑の場合は特に自分の息子をサマー・キャンプに送り出していた30年前を基準にしているので、なおさらである。それでも、彼女は気持ちを取り直し、「ジュンコ、ちょっともう一度改めてキャンプを探してご覧。ザックが行ってたキャンプは調べてみた?聖公会(キリスト教の宗派)が主体として運営しているキャンプだから、ファンシーじゃないけど、いいキャンプだよ。」と言った。
姑から薦められるとちょっと反抗したくなる私だが、とりあえず調べてみることにした。とりたてて魅力的なホームページでもなく、野外アクティビティー型のキャンプということはわかる。寝るのも、建物の中ではなく、8人が2段ベッドで寝起きする大きなミリタリー・テント。
ちょうど、ニューヨークとボストンの中間点に位置し、田舎、都会、郊外といろいろなところからキャンパーたちは集まってくる。去年の写真を見ると、白人が99%のお高いキャンプと比べると断然人種がいろいろと混ざっているのがわかる。
夫に聞くと、「まあ、ぼくの場合、うるさい母親から逃れればそれでよかったから楽しかったけど。」と頼りない感想。それでも、ホームページには同窓会情報なども載っていて、毎年同窓会に集まる人もいる様子。
そこで思い切って、キャンプ・ディレクターに電話をしてみると「おとうさんもここのキャンプに来てたの?2代目、3代目の子供もたくさん来ますよ。おとうさんには同窓会のニュースレター送りますよ。」とのこと。そしてなんと今年が創立125周年という。そしてなんとなんと4週間で一人$2,950 !!!安い!もうここに決まり!
といういきさつで、かなり時間をかけてリサーチした割には、いい加減に決めてしまった子供たちの初めてのお泊りキャンプ。さてさて、これでよかったのでしょうか。
2010年7月5日月曜日
2009年11月9日月曜日
秋の動物たち
仕事帰り。国道からイプスイッチのダウンタウンに続くローカル道路に入る。両側が州立公園で、イプスイッチ川に沿って走るくねくねの田舎道だ。対向車がヘッドライトをちかちかさせる。これは、先にスピード取り締まりのパトカーがひそんでいるか、道を渡ろうとしている鹿がいるかどちらかの合図である。スピード違反の罰金を払わされる事よりもこわいのは、鹿に衝突することだ。下手すると何百ドルもの修理代がかかったり、車に乗っている方も重症を負う事もある。
秋にはいろいろな動物が活発に動き回る。特に夜や、日の出、日没の頃に移動する動物が多い。
秋には子鹿たちも大きくなって、おかあさんたちといっしょにあちこち歩き回れる。雄は交尾の時期でもあるので、食べ物や雌を探し求めて動き回る。雌と子鹿たちは数頭くらいの群れになって森から出て来て、原っぱで草を食べる。敵から身を守るために、原っぱに出ていてもすぐ逃げ込めれるように森の近くに陣取ることが多い。原っぱを歩き回ると、鹿の通り道があるのに気がつく。同じ道を通るから、そこの部分だけ草が倒れているし、糞が道しるべのようにぽろぽろと落ちている。
近所の家の裏の穴蔵に住む狐の子達は、この夏母親が交通事故で死んでしまったので、無事に育つだろうかと心配していたが、先日夜の8時頃、一匹道を横切っているのを見かけてほっとした。野生の動物の孤児にはえさをやってはいけない。人から食べる物を貰う事を知ってしまうと、人を怖がらなくなり、反対に危害を加えるようになる事があるからだ。そのような危害が出たら、すぐにその動物を殺さなくてはならない。だから、このかわいそうな孤児の狐たちも遠くから見守るしかなかったのである。
秋の狐はあまりきれいではない。冬に向けて毛が生え変わっている最中なので、全身がぼさぼさで貧弱に見える。でも、冬の狐は美しい。一度だけ真冬に明るい月を背にして雪の原っぱに立っている狐を見たが、毛が月の光できらきらしていた。
秋、月のきれいな夜にフクロウに会いに行くのも楽しい。人間を敵ではないと知っているのか、あまり逃げない。運がいいと、懐中電灯の光に照らし出されるフクロウを見る事が出来る。こちらの呼びかけに答えてくれるフクロウもいる。「ホッ、ホーー、ホー、ホー、ホー」と呼びかけると、同じように答えてくる。個体によって音程が微妙に違うし、ちょっとだみ声のフクロウなどもいてなかなかおもしろい。
スカンクのにおいは、秋のにおい。スカンクはなぜか春と秋によく交通事故で死ぬ。だからこの季節には、車を運転していると交通事故で死んだスカンクのムスクのにおいがしてくることがある。犬がスカンクに噴射されるのもこの時期だ。まともに顔に噴射されると、かわいそうに犬は一生懸命顔を前足でごしごしとこするのだが、どうにもならない。そのまま家に入れると、家中スカンクのにおいがするし、服にもそのにおいが染み付いてしまう。こんな時のために我が家ではトマトジュースを6リットルほど常備してある。犬を庭につないで逃げれないようにして、トマトジュースで頭からしっぽまで洗う。
トマトジュースのあとはバスタブに入れて犬のシャンプーで何回も洗っては流す。やっとそれが終わってバスタブから出してもらえた犬は、毛が体に張り付きなんとも情けない表情をしてバスルームの端っこで小さくなっている。ドライヤーの熱い風を吹き付けられるころには、もうあきらめの境地だ。半乾きになったところでやっと解放。家の中を走り回り、自分のベッドとレスリングを始める。ストレスを発散しているのだろう。これに懲りて、もうスカンクには近づいてもらいたくない。
霜が降りて秋も深まる頃、外の寒さをしのぐために家に入って来る動物もいる。その一つはてんとう虫だ。てんとう虫は暖かくて湿気のあるバスルームが大好きだ。てんとう虫は花につく害虫を食べるので「家で冬を越してね」と言ってそのままにしている。
ところがやっかいなのが野ネズミである。寒くなって来ると、ドングリやドッグフードをせっせと3階の床下に貯め込み始めるのである。私たち夫婦の寝室は2階なのだが、夜うとうとするころになると、「ころころころ」「ちゃ、ちゃ、ちゃ」(走る音)と頭の真上でまるで運動会の玉転がし競争である。最初の2−3日はだんなに「ちょっとねずみなんとかしてよ」と言っても「うーん。気のせいだよ。ねずみなんていないよ。」とふとんをかぶって寝てしまっていた。子供たちに話すと「ねずみのひっこし」(絵本)で育ったこどもたちは「かわいそうじゃ〜ん。家に置いてあげようよ。」と言う。君たちはすぐ寝入ってしまうけど、私は毎晩寝れないんだよ〜!
私ももうあきらめて何も言わずに布団に入ったある夜、運動会がまたいつも通り始まった。しばらくするとだんながカバッと飛び起き、「!*&?!」とここでは書けないような暴言をはき、どんどんどんと階段をあがっていく音がした。床板をはずしてがたごとと音を立てている。10分ほどして彼はベッドに戻って来てまた寝てしまった。次の夜からはもうネズミはいなくなってしまった。どうしたのかは知りたくないので、きいていない。
秋と言えば感謝祭。感謝祭といえば七面鳥。七面鳥は頭があまりよろしくないことで知られている。馬鹿な七面鳥は車体に移った自分の姿を侵入者と間違えて攻撃するものだから、買って1週間しか経っていない新車のボディーにつつきあとがついてしまったこともある。本当かどうかは知らないが、雨降る空を見上げて溺れ死んだ七面鳥の話も聞いた事がある。
七面鳥はあまり飛べないが、低い木の枝に飛び乗ったり、低い柵を飛び越えるくらいならできる。ある朝、学校のテニスコートに七面鳥が7−8羽閉じ込められていた。テニスコートの周りに張ってある柵の扉は閉まっていたので、当然飛んで入ったのに違いないのだが、飛んで出るという発想ができずに、パニック状態でテニスコートの中を走り回っている。柵の扉を開けてあげても、そこからは出ようとせず、とうとうメインテナンスの大きなおじさんに来てもらって、テニスコートから追い出してもらった。
我が家では、秋の動物と言えば雉の出番である。夫は雉狩りが大好きで、朝の4時半ごろから犬のアディーといっしょに家を出ていく。私も週末などにいっしょにお供することもあるが、草原の散策ついでに雉が出てくればラッキーくらいに気軽な気持ちで猟に行く。新鮮な空気を吸って、いろいろな動物を見て軽い運動になればそれでいいと思っている。夫は鴨狩りも好きなのだが、湿地帯で水の中をざぶざぶ歩き回るのはいやなので私はしない。でも、鳥の中では鴨が一番おいしいと思う。
秋には鹿、熊、雉、鴨などの猟が解禁となる。猟をしていて、その存在を改めて認識させられるのはコヨーテや鷹など野生動物のハンターたちだ。岩場に鷹が食べかけている雉の死骸があったり、コヨーテにちぎられ、食べられた鹿の死骸などを見かける。狩る者と狩られる者がいるという事実。両者の存在があってこそ自然のバランスが保たれるのだが、コヨーテと自分とは食物連鎖上のどんな位置関係にいるのだろうかとふと考えたりする。やはりコヨーテが同じ森や野原にいるのかと思うと少し背筋が寒くなる。
人間はつい自分たちがこの地球の支配者の様に考えてしまうけれども、森の中に入ってしまうと自分もこの大きな自然の中にいる何億という生体中のたった一個体であり、自分にも天敵はいるのだということを認識させられる。
自然は私を謙虚にしてくれる。
雉狩りのあと(向かって左端が私)
秋にはいろいろな動物が活発に動き回る。特に夜や、日の出、日没の頃に移動する動物が多い。
秋には子鹿たちも大きくなって、おかあさんたちといっしょにあちこち歩き回れる。雄は交尾の時期でもあるので、食べ物や雌を探し求めて動き回る。雌と子鹿たちは数頭くらいの群れになって森から出て来て、原っぱで草を食べる。敵から身を守るために、原っぱに出ていてもすぐ逃げ込めれるように森の近くに陣取ることが多い。原っぱを歩き回ると、鹿の通り道があるのに気がつく。同じ道を通るから、そこの部分だけ草が倒れているし、糞が道しるべのようにぽろぽろと落ちている。
近所の家の裏の穴蔵に住む狐の子達は、この夏母親が交通事故で死んでしまったので、無事に育つだろうかと心配していたが、先日夜の8時頃、一匹道を横切っているのを見かけてほっとした。野生の動物の孤児にはえさをやってはいけない。人から食べる物を貰う事を知ってしまうと、人を怖がらなくなり、反対に危害を加えるようになる事があるからだ。そのような危害が出たら、すぐにその動物を殺さなくてはならない。だから、このかわいそうな孤児の狐たちも遠くから見守るしかなかったのである。
秋の狐はあまりきれいではない。冬に向けて毛が生え変わっている最中なので、全身がぼさぼさで貧弱に見える。でも、冬の狐は美しい。一度だけ真冬に明るい月を背にして雪の原っぱに立っている狐を見たが、毛が月の光できらきらしていた。
秋、月のきれいな夜にフクロウに会いに行くのも楽しい。人間を敵ではないと知っているのか、あまり逃げない。運がいいと、懐中電灯の光に照らし出されるフクロウを見る事が出来る。こちらの呼びかけに答えてくれるフクロウもいる。「ホッ、ホーー、ホー、ホー、ホー」と呼びかけると、同じように答えてくる。個体によって音程が微妙に違うし、ちょっとだみ声のフクロウなどもいてなかなかおもしろい。
スカンクのにおいは、秋のにおい。スカンクはなぜか春と秋によく交通事故で死ぬ。だからこの季節には、車を運転していると交通事故で死んだスカンクのムスクのにおいがしてくることがある。犬がスカンクに噴射されるのもこの時期だ。まともに顔に噴射されると、かわいそうに犬は一生懸命顔を前足でごしごしとこするのだが、どうにもならない。そのまま家に入れると、家中スカンクのにおいがするし、服にもそのにおいが染み付いてしまう。こんな時のために我が家ではトマトジュースを6リットルほど常備してある。犬を庭につないで逃げれないようにして、トマトジュースで頭からしっぽまで洗う。
トマトジュースのあとはバスタブに入れて犬のシャンプーで何回も洗っては流す。やっとそれが終わってバスタブから出してもらえた犬は、毛が体に張り付きなんとも情けない表情をしてバスルームの端っこで小さくなっている。ドライヤーの熱い風を吹き付けられるころには、もうあきらめの境地だ。半乾きになったところでやっと解放。家の中を走り回り、自分のベッドとレスリングを始める。ストレスを発散しているのだろう。これに懲りて、もうスカンクには近づいてもらいたくない。
霜が降りて秋も深まる頃、外の寒さをしのぐために家に入って来る動物もいる。その一つはてんとう虫だ。てんとう虫は暖かくて湿気のあるバスルームが大好きだ。てんとう虫は花につく害虫を食べるので「家で冬を越してね」と言ってそのままにしている。
ところがやっかいなのが野ネズミである。寒くなって来ると、ドングリやドッグフードをせっせと3階の床下に貯め込み始めるのである。私たち夫婦の寝室は2階なのだが、夜うとうとするころになると、「ころころころ」「ちゃ、ちゃ、ちゃ」(走る音)と頭の真上でまるで運動会の玉転がし競争である。最初の2−3日はだんなに「ちょっとねずみなんとかしてよ」と言っても「うーん。気のせいだよ。ねずみなんていないよ。」とふとんをかぶって寝てしまっていた。子供たちに話すと「ねずみのひっこし」(絵本)で育ったこどもたちは「かわいそうじゃ〜ん。家に置いてあげようよ。」と言う。君たちはすぐ寝入ってしまうけど、私は毎晩寝れないんだよ〜!
私ももうあきらめて何も言わずに布団に入ったある夜、運動会がまたいつも通り始まった。しばらくするとだんながカバッと飛び起き、「!*&?!」とここでは書けないような暴言をはき、どんどんどんと階段をあがっていく音がした。床板をはずしてがたごとと音を立てている。10分ほどして彼はベッドに戻って来てまた寝てしまった。次の夜からはもうネズミはいなくなってしまった。どうしたのかは知りたくないので、きいていない。
秋と言えば感謝祭。感謝祭といえば七面鳥。七面鳥は頭があまりよろしくないことで知られている。馬鹿な七面鳥は車体に移った自分の姿を侵入者と間違えて攻撃するものだから、買って1週間しか経っていない新車のボディーにつつきあとがついてしまったこともある。本当かどうかは知らないが、雨降る空を見上げて溺れ死んだ七面鳥の話も聞いた事がある。
七面鳥はあまり飛べないが、低い木の枝に飛び乗ったり、低い柵を飛び越えるくらいならできる。ある朝、学校のテニスコートに七面鳥が7−8羽閉じ込められていた。テニスコートの周りに張ってある柵の扉は閉まっていたので、当然飛んで入ったのに違いないのだが、飛んで出るという発想ができずに、パニック状態でテニスコートの中を走り回っている。柵の扉を開けてあげても、そこからは出ようとせず、とうとうメインテナンスの大きなおじさんに来てもらって、テニスコートから追い出してもらった。
我が家では、秋の動物と言えば雉の出番である。夫は雉狩りが大好きで、朝の4時半ごろから犬のアディーといっしょに家を出ていく。私も週末などにいっしょにお供することもあるが、草原の散策ついでに雉が出てくればラッキーくらいに気軽な気持ちで猟に行く。新鮮な空気を吸って、いろいろな動物を見て軽い運動になればそれでいいと思っている。夫は鴨狩りも好きなのだが、湿地帯で水の中をざぶざぶ歩き回るのはいやなので私はしない。でも、鳥の中では鴨が一番おいしいと思う。
秋には鹿、熊、雉、鴨などの猟が解禁となる。猟をしていて、その存在を改めて認識させられるのはコヨーテや鷹など野生動物のハンターたちだ。岩場に鷹が食べかけている雉の死骸があったり、コヨーテにちぎられ、食べられた鹿の死骸などを見かける。狩る者と狩られる者がいるという事実。両者の存在があってこそ自然のバランスが保たれるのだが、コヨーテと自分とは食物連鎖上のどんな位置関係にいるのだろうかとふと考えたりする。やはりコヨーテが同じ森や野原にいるのかと思うと少し背筋が寒くなる。
人間はつい自分たちがこの地球の支配者の様に考えてしまうけれども、森の中に入ってしまうと自分もこの大きな自然の中にいる何億という生体中のたった一個体であり、自分にも天敵はいるのだということを認識させられる。
自然は私を謙虚にしてくれる。
雉狩りのあと(向かって左端が私)
2009年10月13日火曜日
略語
多分、どんな言語でも略語はあるのだろうが、私は日本語と英語しかわからないので、この二つの言語の略語について考えてみた。
つい最近まで、私はインターネットでよくみる「アラフォー」の意味がわからなかった。アラといえば魚のアラ?フォーは数字の4だろうか。結局、日本から来ている学生にきいてやっとAround Forty とわかって、なんとすごい略語だろうと感心してしまった。
日本語の略語はボディコンやパンストを見てみると、二つの言葉「ボディ」と「コンシャス」、「パンティー」と「ストッキング」の頭の所をとって合体させている。これが、普通のパターンなのだろうか。あまり、最近の略語には詳しくないので、将来の研究のために、これから学生にきいて集めてみようと思っている。
英語の場合には、単語の頭のアルファベットを取ってくっつけるのが普通のやり方だ。たとえば、よく知られている例としては、
TGIF(Thank God It's Friday. -「金曜日だ!うれしいよお~!」)
BS(Bull Shit. 「くそくらえ!そんなのはでたらめだ!」)
FYI(For Your Information. 「ご参考までに」)
BYOB(Bring Your Own Booze. 「自分の飲み物、アルコール飲料は持参のこと。」)
SOB(Son Of a Bitch. 「こん畜生!」直訳は「おまえは犬畜生の息子だ!」)
SNAFU (Situation Normal: All Fucked Up.「いつものことながら、めちゃくちゃな状況だよ。」ベトナム戦争の時に生まれた軍隊用語。)
WTH (What the Heck! 「なんじゃあ!?」)
PITA (Pain in the Ass 直訳「おしりの痛み」-「めんどうくさいなあ。」「めんどくさいやつ。」)
JAP(Jewish American Princess. ユダヤ系アメリカ人の甘やかされたわがまま娘。)
WASP (White Anglo Saxon Protestant. アングロサクソン系白人でプロテスタントの人。)
最近Eメールや掲示板で字数と時間短縮のために開発されたと思われる見られる例は、
LOL(Laugh Out Loud.「ガハハ!」-大声で笑う)
ROFL (Rolling On The Floor Laughing 「床に転がりまわって笑う。」)
IMO(In My Opinion. 「私の意見は、、、」)
IMHO(In My Humble Opinion. 「私の謙虚な意見は、、、」)
OMG(Oh My God. 「ああ~なんてこと!」)
ISO(In Search Of. 恋人募集欄などで「こういう人を探しています。」)
IIRC (If I Recall Correctly 「私の記憶が正しければ、、、」)
TBA (To Be Announced 「発表予定」)
TTYS (Talk To You Soon 「じゃね。」)
TTYL (Talk To You Later 「またあとで。」)
BRB (Be Right Back 「すぐ戻ります。」)
BBL (Be Back Later 「後で戻ります。」)
BRS (Be Back Soon 「少したってから戻ります。」)
SYS (See You Soon 「またね。」)
U(You. あなた)
R(Are. 動詞)
一番最近知ったのは、
NIMBY (Not In My Back Yard. 「家の近くはごめんだね。」ーたとえば、風力発電には賛成だが、自分の近くには風車を立ててほしくないなどというときに使う。)
略語ではないが、かわいいところでは、
xoxoxo (Kiss, Hug, Kiss, Hug, Kiss, Hug)
これは、親しい人への手紙やE メールの最後によく使われる。
Eメールや、掲示板、携帯電話でのテキストメッセージの影響で、最近は特に略語が急激に増えつつある。若者が書いたものは、「読んでもわからん!」という大人が増えてきているので、略語の翻訳者が必要だ、などというジョークも聞かれる。
最後に私の職場でよく使われる略語の例として、
CYA (Cover Your Ass. 直訳「ケツ隠せ。」本当のところの意味は「手落ちがないように、後でしかられないように手配しておく。」くらいだろうか。これも軍隊用語だったらしい。)
では、皆様、GN! (Good Night.)
つい最近まで、私はインターネットでよくみる「アラフォー」の意味がわからなかった。アラといえば魚のアラ?フォーは数字の4だろうか。結局、日本から来ている学生にきいてやっとAround Forty とわかって、なんとすごい略語だろうと感心してしまった。
日本語の略語はボディコンやパンストを見てみると、二つの言葉「ボディ」と「コンシャス」、「パンティー」と「ストッキング」の頭の所をとって合体させている。これが、普通のパターンなのだろうか。あまり、最近の略語には詳しくないので、将来の研究のために、これから学生にきいて集めてみようと思っている。
英語の場合には、単語の頭のアルファベットを取ってくっつけるのが普通のやり方だ。たとえば、よく知られている例としては、
TGIF(Thank God It's Friday. -「金曜日だ!うれしいよお~!」)
BS(Bull Shit. 「くそくらえ!そんなのはでたらめだ!」)
FYI(For Your Information. 「ご参考までに」)
BYOB(Bring Your Own Booze. 「自分の飲み物、アルコール飲料は持参のこと。」)
SOB(Son Of a Bitch. 「こん畜生!」直訳は「おまえは犬畜生の息子だ!」)
SNAFU (Situation Normal: All Fucked Up.「いつものことながら、めちゃくちゃな状況だよ。」ベトナム戦争の時に生まれた軍隊用語。)
WTH (What the Heck! 「なんじゃあ!?」)
PITA (Pain in the Ass 直訳「おしりの痛み」-「めんどうくさいなあ。」「めんどくさいやつ。」)
JAP(Jewish American Princess. ユダヤ系アメリカ人の甘やかされたわがまま娘。)
WASP (White Anglo Saxon Protestant. アングロサクソン系白人でプロテスタントの人。)
最近Eメールや掲示板で字数と時間短縮のために開発されたと思われる見られる例は、
LOL(Laugh Out Loud.「ガハハ!」-大声で笑う)
ROFL (Rolling On The Floor Laughing 「床に転がりまわって笑う。」)
IMO(In My Opinion. 「私の意見は、、、」)
IMHO(In My Humble Opinion. 「私の謙虚な意見は、、、」)
OMG(Oh My God. 「ああ~なんてこと!」)
ISO(In Search Of. 恋人募集欄などで「こういう人を探しています。」)
IIRC (If I Recall Correctly 「私の記憶が正しければ、、、」)
TBA (To Be Announced 「発表予定」)
TTYS (Talk To You Soon 「じゃね。」)
TTYL (Talk To You Later 「またあとで。」)
BRB (Be Right Back 「すぐ戻ります。」)
BBL (Be Back Later 「後で戻ります。」)
BRS (Be Back Soon 「少したってから戻ります。」)
SYS (See You Soon 「またね。」)
U(You. あなた)
R(Are. 動詞)
一番最近知ったのは、
NIMBY (Not In My Back Yard. 「家の近くはごめんだね。」ーたとえば、風力発電には賛成だが、自分の近くには風車を立ててほしくないなどというときに使う。)
略語ではないが、かわいいところでは、
xoxoxo (Kiss, Hug, Kiss, Hug, Kiss, Hug)
これは、親しい人への手紙やE メールの最後によく使われる。
Eメールや、掲示板、携帯電話でのテキストメッセージの影響で、最近は特に略語が急激に増えつつある。若者が書いたものは、「読んでもわからん!」という大人が増えてきているので、略語の翻訳者が必要だ、などというジョークも聞かれる。
最後に私の職場でよく使われる略語の例として、
CYA (Cover Your Ass. 直訳「ケツ隠せ。」本当のところの意味は「手落ちがないように、後でしかられないように手配しておく。」くらいだろうか。これも軍隊用語だったらしい。)
では、皆様、GN! (Good Night.)
2009年10月3日土曜日
スーツとエプロンと散弾銃
秋の10週間、毎週火曜日はスーツとエプロンと散弾銃の日。超忙しい日なのだ。
火曜日は、学校の事務系の仕事をしている私はもちろんのこと、大学で教えている夫も授業のある日なので朝一番から二人とも出勤。朝7時に子供たちを学校へ送っていき、職場へと急ぐ。
夕方は必ず4時15分までには職場を出て、5時45分くらいに家へたどり着き、着替えもせずにスーツを着たまま、エプロンをつけて夕食の準備をする。5時30分の電車で帰ってくる夫が、子供たちをピックアップして、連れて帰ってくるのが5時50分くらい。6時10分までには夕食を準備して子供たちに食べさせる。
子供たちが食べている間に夫と私は着替え、銃庫にしまってある散弾銃と散弾を取り出す。6時25分には子供たちも空手着に着替えさせ、犬も含めた家族全員で家を出る。6時28分に子供たちを空手道場の前でおろす。「ママ~。ドアを開けるのは車を止めてからにしてよ。」とチャーリーに言われてからは、一旦停止して子供を下ろしている。(運転手側のドアを開けないと、後ろのドアが開けられない不便な車に乗っているので、つい減速しながら運転手側のドアを開けてしまう。)5秒ほどのロスタイムだが、仕方がない。
空手道場から2分。6時30分に私たちのクラブに到着する。ここでやっと一息つける。
クラブの名前はイプスイッチ・フィッシュ・アンド・ゲームズ・アソッシエーション(Ipswich Fish and Games Association)。イプスイッチ釣り猟協会とでも訳しておこう。釣りや狩猟が好きな人や、射撃スポーツ愛好家が集まっている。クレー射撃、ライフル、ピストル、アーチェリーなどが出来、敷地内にちいさな池と川があって毎年放流する魚を釣ることもできる。
会員の職業は本当にさまざまだ。会長はロブスターの漁師、普通の漁師、他には電気工や水道屋、IT のハードをする人、ソフトをする人、外科医、内科医、高校教員、看護婦、特殊学校教師、大学教授、大工、ソーセージ工場の社長、会計士、公務員、パート、警察官、兵士。昼間はいろんな顔を持っているが、ここではみな仲間。次の手術まで2−3時間ほどあるからと、練習にやってきた外科医に「おまえそんなことしてていいのかよ〜。」「練習しても、下手は直らないんだから患者くらいは直してやれや。」とちゃかしたりもすれば、漁師にクラムチャウダーの秘密の素材を教えてもらったりする。政治家批判をすることもあれば、先週末に釣った魚の大きさを比べ合ったりもする。何よりいいのは、クラブの維持に関するたいていのことは、会員だけで自給自足でやれてしまうことだ。屋根の修理、暖房の修理、野外照明の設置、新しいライフル場の建設、クラブ主催のピクニックや収穫祭の材料や調理、などなど外に頼むことなどはほとんどない。
さて、火曜日の6時半には、クラブにもうたくさん人が集まって、クレー射撃のリーグ戦が始まるのを待っている。1チーム5人ずつで6チーム。30人のうち女性は3人。中高生の男の子たちが3人。あとは大人の男性である。毎週違うチームと対抗戦をする。
うちの駄犬アディーも1日中ひとりで留守番をした後なので、仲良しのラブラドールリトリーバーのゲージ君と走り回っている。2匹とも猟犬として育てているので、銃声に慣れている。アディーは銃を出してくるだけで、部屋の中を喜んで走り回る。銃が出てくる時には、自分も必ず連れて行ってもらえることを知っているからだ。
1番目に撃つチームは6時半きっかりに射撃ラインに並ぶが、他の人は誰かが持って来てくれたおやつを食べながら、世間話をしたり撃っている人をはやしたりする。
クレー射撃の競技方法はいくつかあるのだが、ちょっとここで私たちのクラブでするリーグ戦の形式を説明しておこう。
1チーム5人で形成されているが、自分でチームを選ぶことはできない。まず全員が春のリーグ戦の時の成績順に5レベルのグループに分けられる。そして、それぞれのレベルからランダムに1人づつ選んでチームを作る。だから、どのチームにもトップレベルの人もいれば、私のように一番下のレベルの人もいるわけである。
リーグ戦は総当り形式で、それぞれのチームがほかの5チームと2回ずつあたる。その際、レベルが同じもの同士で「対決」する。射撃ラインにチームの5人が並んで立つ。それぞれのポジションからランダムに飛ぶクレーを5つずつ撃ち落とす。5つ撃ったら、次のポジションへ移る。基本的には全員が5つのすべてのポジションから5回ずつ総計25回ずつ撃つ。
これを6チームが繰り返し、その晩対戦するチームの成績とくらべる。
ただ、自分がミスったクレーを、右隣りのチームメートが撃ってもいいことになっている。撃ち落したクレーの数が多い方が勝ち。たとえば、私がクレーを10個撃ち落としたとしよう。そして私の右隣りの人が私がミスった15個のうち、7個を撃ち落としてくれたとしたら、私の成績か17個である。相手チームの5番手が16個撃ち落としていたら、私の勝ち。
勝ったらチームに1点加算される。引き分けの場合には0.5点ずつそれぞれもらえる。欠席者がいた場合には自動的に敵方に1点行ってしまう。負けたらもちろん点数はもらえない。だから、下手でもその日の対決相手よりも、ひとつでもクレーを多く撃つと勝ちで、自分のチームの総合点に貢献することが出来るのである。
夫と私は違うチームなので、7時半になると、手のあいている方が子供たちを迎えに行き、家に連れて帰る。おやつを食べさせ、お風呂にいれ、ベッドに入れる。両チームの順番が遅い場合など、タイミングが合いそうにない時には、子供たちに任天堂DSのゲームを持たせ、道場で待たせておく。
夫婦そろって夕食にありつけるのは夜の9時ごろだ。
その後、いっしょに銃の手入れをする。もうこの時期には夜は冷え込むので、ストーブに薪を入れて部屋を暖かくする。
ダイニングテーブルの上をかたづけ、フェルトを敷き、その上で銃を分解する。無繊布を少し油に浸して銃筒から小さな部品まできれいに磨き上げる。手抜きは出来ないから、二人とも腰を落ち着けて、のんびりと1日のことなどを話しながら手を動かす。一日で一番、心も体も休まる時だ。手元を動かしていると、自然と普段話さないようなことも話す。
子供たちといっしょに読んだローラ・インガルスの「大きな森の小さな小屋」にも似たような情景が書かれていた。ローラのお父さんが夜、暖炉の前で銃の手入れをして、次の日のために弾丸を作っている場面だ。そんな時、お父さんは子供たちに昔話やおとぎ話、森のくまに出合った話などをいろいろ聞かせてくれたという。
ある晩、銃の手入れをしているときに子供たちも隣でおやつを食べていた。もう少し大きくなったら、ライフルの練習を始めようなどと話していた。「妙ちゃんがボーイフレンド連れて帰ってきたら、お母さんと二人で銃の手入れをしている所を見せながら、『娘に変なことをしたら、、、』って脅かすのさ。」と夫が言ったら、娘が「そんなことしなくても、私が自分の銃を手入れしているところを見せて『私に変なことしたら、、、』って言うから。」とのたもうた。
さすが私の娘です。(ちなみに彼女はまだ9歳。)
火曜日は、学校の事務系の仕事をしている私はもちろんのこと、大学で教えている夫も授業のある日なので朝一番から二人とも出勤。朝7時に子供たちを学校へ送っていき、職場へと急ぐ。
夕方は必ず4時15分までには職場を出て、5時45分くらいに家へたどり着き、着替えもせずにスーツを着たまま、エプロンをつけて夕食の準備をする。5時30分の電車で帰ってくる夫が、子供たちをピックアップして、連れて帰ってくるのが5時50分くらい。6時10分までには夕食を準備して子供たちに食べさせる。
子供たちが食べている間に夫と私は着替え、銃庫にしまってある散弾銃と散弾を取り出す。6時25分には子供たちも空手着に着替えさせ、犬も含めた家族全員で家を出る。6時28分に子供たちを空手道場の前でおろす。「ママ~。ドアを開けるのは車を止めてからにしてよ。」とチャーリーに言われてからは、一旦停止して子供を下ろしている。(運転手側のドアを開けないと、後ろのドアが開けられない不便な車に乗っているので、つい減速しながら運転手側のドアを開けてしまう。)5秒ほどのロスタイムだが、仕方がない。
空手道場から2分。6時30分に私たちのクラブに到着する。ここでやっと一息つける。
クラブの名前はイプスイッチ・フィッシュ・アンド・ゲームズ・アソッシエーション(Ipswich Fish and Games Association)。イプスイッチ釣り猟協会とでも訳しておこう。釣りや狩猟が好きな人や、射撃スポーツ愛好家が集まっている。クレー射撃、ライフル、ピストル、アーチェリーなどが出来、敷地内にちいさな池と川があって毎年放流する魚を釣ることもできる。
会員の職業は本当にさまざまだ。会長はロブスターの漁師、普通の漁師、他には電気工や水道屋、IT のハードをする人、ソフトをする人、外科医、内科医、高校教員、看護婦、特殊学校教師、大学教授、大工、ソーセージ工場の社長、会計士、公務員、パート、警察官、兵士。昼間はいろんな顔を持っているが、ここではみな仲間。次の手術まで2−3時間ほどあるからと、練習にやってきた外科医に「おまえそんなことしてていいのかよ〜。」「練習しても、下手は直らないんだから患者くらいは直してやれや。」とちゃかしたりもすれば、漁師にクラムチャウダーの秘密の素材を教えてもらったりする。政治家批判をすることもあれば、先週末に釣った魚の大きさを比べ合ったりもする。何よりいいのは、クラブの維持に関するたいていのことは、会員だけで自給自足でやれてしまうことだ。屋根の修理、暖房の修理、野外照明の設置、新しいライフル場の建設、クラブ主催のピクニックや収穫祭の材料や調理、などなど外に頼むことなどはほとんどない。
さて、火曜日の6時半には、クラブにもうたくさん人が集まって、クレー射撃のリーグ戦が始まるのを待っている。1チーム5人ずつで6チーム。30人のうち女性は3人。中高生の男の子たちが3人。あとは大人の男性である。毎週違うチームと対抗戦をする。
うちの駄犬アディーも1日中ひとりで留守番をした後なので、仲良しのラブラドールリトリーバーのゲージ君と走り回っている。2匹とも猟犬として育てているので、銃声に慣れている。アディーは銃を出してくるだけで、部屋の中を喜んで走り回る。銃が出てくる時には、自分も必ず連れて行ってもらえることを知っているからだ。
1番目に撃つチームは6時半きっかりに射撃ラインに並ぶが、他の人は誰かが持って来てくれたおやつを食べながら、世間話をしたり撃っている人をはやしたりする。
クレー射撃の競技方法はいくつかあるのだが、ちょっとここで私たちのクラブでするリーグ戦の形式を説明しておこう。
1チーム5人で形成されているが、自分でチームを選ぶことはできない。まず全員が春のリーグ戦の時の成績順に5レベルのグループに分けられる。そして、それぞれのレベルからランダムに1人づつ選んでチームを作る。だから、どのチームにもトップレベルの人もいれば、私のように一番下のレベルの人もいるわけである。
リーグ戦は総当り形式で、それぞれのチームがほかの5チームと2回ずつあたる。その際、レベルが同じもの同士で「対決」する。射撃ラインにチームの5人が並んで立つ。それぞれのポジションからランダムに飛ぶクレーを5つずつ撃ち落とす。5つ撃ったら、次のポジションへ移る。基本的には全員が5つのすべてのポジションから5回ずつ総計25回ずつ撃つ。
これを6チームが繰り返し、その晩対戦するチームの成績とくらべる。
ただ、自分がミスったクレーを、右隣りのチームメートが撃ってもいいことになっている。撃ち落したクレーの数が多い方が勝ち。たとえば、私がクレーを10個撃ち落としたとしよう。そして私の右隣りの人が私がミスった15個のうち、7個を撃ち落としてくれたとしたら、私の成績か17個である。相手チームの5番手が16個撃ち落としていたら、私の勝ち。
勝ったらチームに1点加算される。引き分けの場合には0.5点ずつそれぞれもらえる。欠席者がいた場合には自動的に敵方に1点行ってしまう。負けたらもちろん点数はもらえない。だから、下手でもその日の対決相手よりも、ひとつでもクレーを多く撃つと勝ちで、自分のチームの総合点に貢献することが出来るのである。
夫と私は違うチームなので、7時半になると、手のあいている方が子供たちを迎えに行き、家に連れて帰る。おやつを食べさせ、お風呂にいれ、ベッドに入れる。両チームの順番が遅い場合など、タイミングが合いそうにない時には、子供たちに任天堂DSのゲームを持たせ、道場で待たせておく。
夫婦そろって夕食にありつけるのは夜の9時ごろだ。
その後、いっしょに銃の手入れをする。もうこの時期には夜は冷え込むので、ストーブに薪を入れて部屋を暖かくする。
ダイニングテーブルの上をかたづけ、フェルトを敷き、その上で銃を分解する。無繊布を少し油に浸して銃筒から小さな部品まできれいに磨き上げる。手抜きは出来ないから、二人とも腰を落ち着けて、のんびりと1日のことなどを話しながら手を動かす。一日で一番、心も体も休まる時だ。手元を動かしていると、自然と普段話さないようなことも話す。
子供たちといっしょに読んだローラ・インガルスの「大きな森の小さな小屋」にも似たような情景が書かれていた。ローラのお父さんが夜、暖炉の前で銃の手入れをして、次の日のために弾丸を作っている場面だ。そんな時、お父さんは子供たちに昔話やおとぎ話、森のくまに出合った話などをいろいろ聞かせてくれたという。
ある晩、銃の手入れをしているときに子供たちも隣でおやつを食べていた。もう少し大きくなったら、ライフルの練習を始めようなどと話していた。「妙ちゃんがボーイフレンド連れて帰ってきたら、お母さんと二人で銃の手入れをしている所を見せながら、『娘に変なことをしたら、、、』って脅かすのさ。」と夫が言ったら、娘が「そんなことしなくても、私が自分の銃を手入れしているところを見せて『私に変なことしたら、、、』って言うから。」とのたもうた。
さすが私の娘です。(ちなみに彼女はまだ9歳。)
2009年7月22日水曜日
ナニーは世界一の姑
「おばあちゃんと呼ばないで!」と姑が言うので、我が家では彼女をグラニーではなくナニー(Nanny)と呼ぶ。そして私は「ナニーは世界一の姑だ。」と思い込むことにしている。
よく「愛するだんな様を生み育ててくれた人だから大切にして。」と小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことを言う人もいるが、うちの夫は自己中でわがままだから、夫とけんかして頭にくると「どんな育てられ方をしたんだよ!」とか「こいつは失敗作だ」と思ってしまう。だから「愛するだんな様」と言われてもまったくぴんと来ない。「姑が放任したせいだ」「姑は細かすぎる」「姑の期待が高すぎる」と思ってしまうのが正直なところである。
でも、元来が怠慢でめんどくさがり屋の私は、姑のことであれこれ思い悩むのはかったるいし時間がもったいないので、「私の姑は世界一。」と思うようにしている。
*************************************************
客観的に見てナニーは「すごい!」と私も思う。兄二人は名門大学に通わせてもらえたが、彼女はいわゆる「フィニシング・スクール」(花嫁学校)しか出ていない。それでも、今では自分の小さな会社を経営し、一年中飛び回っている。
いろいろな学習障害が知られている今でこそ、自分がADDで多動児だったから学校の成績が悪かったのだと理解できるが、そのころは兄弟の中で自分が一番だめなんだと思っていたという。それでも、ADD でじっとしていることができない性質だから、自力でいろいろな知識やスキルを身に付けた。舅と結婚する20代後半にはりっぱなビジネス・ウーマンになっていた。
長男である夫が生まれて1年間は、育児と家事に専念したものの退屈でしかたがなく、再びビジネスの世界にもどった。舅が弁護士だったので一応生活には困らなかったのだが、いくつかのビジネスを立ち上げては、それをつぶすか売るということを繰り返した。しかし、郊外の大きな家を購入してまもなく彼女の夫はがんで亡くなった。大学に入ったばかりの長男、中学生の長女と家のローンと多額の医療費。彼女は家を叩き値で売り、借家に移り、夫が子供の教育費にと貯めていたものだけには手を付けまいとがんばった。就職、解雇などを繰り返し、結局自分で再びビジネスを立ち上げた。それが今の高級シルクジャケットのビジネスである。子供たちが「ナニーのスクールバス」と呼ぶ巨大バンに乗って全国を走り回り、はては海外までにジャケットを売りに行く。ナニーはすごいのだ。
姑は我が家に来てもじっとしていることができない。それにきれい好きの姑は埃などを見ると、うずうずしてくるのだろう。「掃除はしなくても死なない」というスローガンの我が家は部屋の隅にダスト・バニー(埃の玉をうさぎに見立てるアメリカ人に、月にうさぎを見る日本人をばかにする権利はない)が何匹も隠れているし、台所に油汚れがこびりついているし、バスルームの鏡にも歯磨き粉が飛び散っている。そこで彼女は家に来ると、お掃除ウーマンに変身するのである。最初の頃は私も姑のあとをついてまわって「すみません。すみません。」といいながらいっしょに掃除したものだが、もうこのごろは勝手にしたいことをしてもらって、私は台所に引っ込んでいる。
ただ、困ったことに彼女はちょっと張り切りすぎる。先日、お手洗いで何やらやっているなと思っていたら、「ジュンコ〜」と少し猫なで声で呼ばれた。行ってみると、便器掃除ブラシの柄を持って立っている。「どうかしましたか。」「便器掃除していたら、力入れすぎてブラシが折れてしまったの。ごめんね〜。」「、、、、いいですよ。ブラシくらい。もうここはそのくらいにして、お茶でもしましょう。」
お茶のあと、今度はキッチンに入って掃除を始めてくれた。ガスストーブ、水回りと次々手際よく磨き上げて行ってくれた。しばらくして、「ジュンコ〜」とまた声がした。行ってみると今度は電子レンジの前に立っている。「ごめんね〜。電子レンジのボタンを掃除してたら、壊してしまったみたいなの。新しいの買ってあげるわね。」ボタンをごしごしやりすぎて制御装置が壊れてしまったのである!「気にしないで。しばらくほっておけば直るかもしれないし。あとで、ザックに見てもらいましょう。」と言って台所から立ち退きをしていただいた。やれやれ。その後は草むしりをやらせてあげた。
*********************
そんな姑が、2ヶ月ほど前にものすごい決心をしたのである。
もう学校も終盤に入り、そろそろ夏という時に、普段は月に2回ほどしか電話で話さない姑から週に1、2回くらい電話がかかってくるようになった。そして、いつもは一人で1時間くらいは軽くしゃべりまくる人なのに、こちらの様子を伺ってしばらく世間話をしたらもう電話を切るようになった。それが3週間くらい続いた時に夫が「お母さん、一体どうしたんだ?」と問いつめたところ、電話の向こう側で泣き崩れて事情を説明してくれた。
手短に言うと、自分の娘、夫の妹と絶交したというのである。
義妹は現在35歳。ちゃんと名門大学を出て、イギリスで修士も取った才媛である。「作家」志望で、いろいろエッセイとか書いて雑誌などには載せてもらっているものの、それだけでは生活は成り立たない。そこで、いろいろなアルバイトで食いつないでいる。ところが、小さい頃から甘やかされて育ったものだから、金銭感覚が余りない。お金がなくなって困っても、母親がいつも助けてくれるものだから、お金を貯めておこうとか、今月は$100のナイト・クリームを買うのはやめて$10ので我慢しておこうとか考えないのである。
私も夫には非常に厳しい姑が、自分の娘にはとても甘いのは知っていたが、私の関知すべきことではないと考え、口を挟んだことはない。夫もしかたがないと思っている。
そんな妹が姑からお金を「ちょろまかした」のである。そして、そのお金でボーイフレンドと海外旅行に行ったものだから、姑は怒った。(これは姑の話であるから、100%正確かどうかはまだ分からない。)そしてEメールで自分の娘をしかった。
ところが、妹はそれに反逆した。詳しい内容は知らないし、知りたくもないが、とにかく姑がなんとひどい母親かということを綿々と書いてよこし、あげくのはてには「あなたみたいな人の娘に生まれて来たくはなかった。」というようなことを書いた。
姑は非常にショックを受け、返事を書こうにも何を書いたらいいか分からず、怒りと悲しみと悔しさで身も心もずたずた。悶々とする毎日の中であと唯一の家族である我が家に電話をして、私たちの声を聞くのを慰めにしていたのである。
1時間ほど思いっきり泣いた姑は、最後にこう言った。「私は、あの子を今でも心から愛している。たった一人の娘だもの。でも、もう私はあの子にはいっさい援助はしない。今回のことで、私がいかにあの子をだめにしてしまったかを思い知った。これは自業自得。あの子が自分の書いたことを振り返って、お母さんに悪いことを言ったと思って謝って来るまで、もう私も一切連絡は断つ。」と言ったのだ。
そして、それを実行に移して2ヶ月が経った。
不思議なもので、普段あまりやりとりのない義妹もここ2ヶ月の間に何回か我が家に立ち寄って行った。母親とのけんかのことは何も言わないが、やはり少しは不安なのだろうかと思ったりする。
2、3日まえに姑と夕食を一緒にした時に、「1週間ほど前に立ち寄ってくれたけど、元気そうだったよ。」と報告すると姑は涙ぐんで「そう。よかった。でも、あの子がちゃんと謝って来るまでは、私は連絡は取らない。たとえ憎まれて死んでも、あの子にはちゃんと自立できるようになってもらいたいから。それが私の母親としての役目だから。」と言った。
私の姑はすごい。
よく「愛するだんな様を生み育ててくれた人だから大切にして。」と小学校の道徳の教科書に書いてあるようなことを言う人もいるが、うちの夫は自己中でわがままだから、夫とけんかして頭にくると「どんな育てられ方をしたんだよ!」とか「こいつは失敗作だ」と思ってしまう。だから「愛するだんな様」と言われてもまったくぴんと来ない。「姑が放任したせいだ」「姑は細かすぎる」「姑の期待が高すぎる」と思ってしまうのが正直なところである。
でも、元来が怠慢でめんどくさがり屋の私は、姑のことであれこれ思い悩むのはかったるいし時間がもったいないので、「私の姑は世界一。」と思うようにしている。
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客観的に見てナニーは「すごい!」と私も思う。兄二人は名門大学に通わせてもらえたが、彼女はいわゆる「フィニシング・スクール」(花嫁学校)しか出ていない。それでも、今では自分の小さな会社を経営し、一年中飛び回っている。
いろいろな学習障害が知られている今でこそ、自分がADDで多動児だったから学校の成績が悪かったのだと理解できるが、そのころは兄弟の中で自分が一番だめなんだと思っていたという。それでも、ADD でじっとしていることができない性質だから、自力でいろいろな知識やスキルを身に付けた。舅と結婚する20代後半にはりっぱなビジネス・ウーマンになっていた。
長男である夫が生まれて1年間は、育児と家事に専念したものの退屈でしかたがなく、再びビジネスの世界にもどった。舅が弁護士だったので一応生活には困らなかったのだが、いくつかのビジネスを立ち上げては、それをつぶすか売るということを繰り返した。しかし、郊外の大きな家を購入してまもなく彼女の夫はがんで亡くなった。大学に入ったばかりの長男、中学生の長女と家のローンと多額の医療費。彼女は家を叩き値で売り、借家に移り、夫が子供の教育費にと貯めていたものだけには手を付けまいとがんばった。就職、解雇などを繰り返し、結局自分で再びビジネスを立ち上げた。それが今の高級シルクジャケットのビジネスである。子供たちが「ナニーのスクールバス」と呼ぶ巨大バンに乗って全国を走り回り、はては海外までにジャケットを売りに行く。ナニーはすごいのだ。
姑は我が家に来てもじっとしていることができない。それにきれい好きの姑は埃などを見ると、うずうずしてくるのだろう。「掃除はしなくても死なない」というスローガンの我が家は部屋の隅にダスト・バニー(埃の玉をうさぎに見立てるアメリカ人に、月にうさぎを見る日本人をばかにする権利はない)が何匹も隠れているし、台所に油汚れがこびりついているし、バスルームの鏡にも歯磨き粉が飛び散っている。そこで彼女は家に来ると、お掃除ウーマンに変身するのである。最初の頃は私も姑のあとをついてまわって「すみません。すみません。」といいながらいっしょに掃除したものだが、もうこのごろは勝手にしたいことをしてもらって、私は台所に引っ込んでいる。
ただ、困ったことに彼女はちょっと張り切りすぎる。先日、お手洗いで何やらやっているなと思っていたら、「ジュンコ〜」と少し猫なで声で呼ばれた。行ってみると、便器掃除ブラシの柄を持って立っている。「どうかしましたか。」「便器掃除していたら、力入れすぎてブラシが折れてしまったの。ごめんね〜。」「、、、、いいですよ。ブラシくらい。もうここはそのくらいにして、お茶でもしましょう。」
お茶のあと、今度はキッチンに入って掃除を始めてくれた。ガスストーブ、水回りと次々手際よく磨き上げて行ってくれた。しばらくして、「ジュンコ〜」とまた声がした。行ってみると今度は電子レンジの前に立っている。「ごめんね〜。電子レンジのボタンを掃除してたら、壊してしまったみたいなの。新しいの買ってあげるわね。」ボタンをごしごしやりすぎて制御装置が壊れてしまったのである!「気にしないで。しばらくほっておけば直るかもしれないし。あとで、ザックに見てもらいましょう。」と言って台所から立ち退きをしていただいた。やれやれ。その後は草むしりをやらせてあげた。
*********************
そんな姑が、2ヶ月ほど前にものすごい決心をしたのである。
もう学校も終盤に入り、そろそろ夏という時に、普段は月に2回ほどしか電話で話さない姑から週に1、2回くらい電話がかかってくるようになった。そして、いつもは一人で1時間くらいは軽くしゃべりまくる人なのに、こちらの様子を伺ってしばらく世間話をしたらもう電話を切るようになった。それが3週間くらい続いた時に夫が「お母さん、一体どうしたんだ?」と問いつめたところ、電話の向こう側で泣き崩れて事情を説明してくれた。
手短に言うと、自分の娘、夫の妹と絶交したというのである。
義妹は現在35歳。ちゃんと名門大学を出て、イギリスで修士も取った才媛である。「作家」志望で、いろいろエッセイとか書いて雑誌などには載せてもらっているものの、それだけでは生活は成り立たない。そこで、いろいろなアルバイトで食いつないでいる。ところが、小さい頃から甘やかされて育ったものだから、金銭感覚が余りない。お金がなくなって困っても、母親がいつも助けてくれるものだから、お金を貯めておこうとか、今月は$100のナイト・クリームを買うのはやめて$10ので我慢しておこうとか考えないのである。
私も夫には非常に厳しい姑が、自分の娘にはとても甘いのは知っていたが、私の関知すべきことではないと考え、口を挟んだことはない。夫もしかたがないと思っている。
そんな妹が姑からお金を「ちょろまかした」のである。そして、そのお金でボーイフレンドと海外旅行に行ったものだから、姑は怒った。(これは姑の話であるから、100%正確かどうかはまだ分からない。)そしてEメールで自分の娘をしかった。
ところが、妹はそれに反逆した。詳しい内容は知らないし、知りたくもないが、とにかく姑がなんとひどい母親かということを綿々と書いてよこし、あげくのはてには「あなたみたいな人の娘に生まれて来たくはなかった。」というようなことを書いた。
姑は非常にショックを受け、返事を書こうにも何を書いたらいいか分からず、怒りと悲しみと悔しさで身も心もずたずた。悶々とする毎日の中であと唯一の家族である我が家に電話をして、私たちの声を聞くのを慰めにしていたのである。
1時間ほど思いっきり泣いた姑は、最後にこう言った。「私は、あの子を今でも心から愛している。たった一人の娘だもの。でも、もう私はあの子にはいっさい援助はしない。今回のことで、私がいかにあの子をだめにしてしまったかを思い知った。これは自業自得。あの子が自分の書いたことを振り返って、お母さんに悪いことを言ったと思って謝って来るまで、もう私も一切連絡は断つ。」と言ったのだ。
そして、それを実行に移して2ヶ月が経った。
不思議なもので、普段あまりやりとりのない義妹もここ2ヶ月の間に何回か我が家に立ち寄って行った。母親とのけんかのことは何も言わないが、やはり少しは不安なのだろうかと思ったりする。
2、3日まえに姑と夕食を一緒にした時に、「1週間ほど前に立ち寄ってくれたけど、元気そうだったよ。」と報告すると姑は涙ぐんで「そう。よかった。でも、あの子がちゃんと謝って来るまでは、私は連絡は取らない。たとえ憎まれて死んでも、あの子にはちゃんと自立できるようになってもらいたいから。それが私の母親としての役目だから。」と言った。
私の姑はすごい。
2009年7月20日月曜日
オーペア
うちはオーペアなしではサバイブできなかった。子供たちが生まれて小学校1年生になるまでは、オーペアのおかげでアビューザ家はなんとかサバイブしたのだ。
オーペアとは?アメリカの家庭で家族の一員として住み、子供たちの世話をしながら英語を学び、アメリカ文化に触れるために、1年から2年間渡米する外国人の若者だ。政府が承認しているいくつかのエージェンシーを通して、世界中からやってくる住み込みベビーシッター・お姉さんたち(ほとんどが女子)。うちの子供たちはこの女の子たちのおかげで元気に育ち、私たち親は安心して仕事を続けられた。
アメリカの保育園はかなりお金がかかる。1歳以下の乳児の場合、9年前でも最低1ヶ月$900した。うちは双子だからその2倍。2人目からは割引が利くところもあるが、そういうところはもともとの値段が$1200と割高である。それに、これは9時から5時までのお値段だから、延長保育をしてもらうともっとかかるのである。だから、アメリカの共働きの家庭で2人以上子供がいたら、オーペアに来てもらった方が割安になる。
当時、オーペア・エージェンシーにはプログラム費(航行料、保険、手数料など)約$6,000を払い、オーペアには週$135ほどをお小遣いとして渡すシステムになっていた。オーペアは週に35時間まで子供の世話をするのが仕事で、その他は英語の授業をとったり、家族とすごしたり、家事を手伝ったり、友達と遊びに行ったりする。いっしょに住んでいるので、子供が病気をしても親は安心して仕事に出かけることができる。
オーペアの選考基準はきちんと定められており、あらゆる書類の他、個人面接の記録なども渡され、それを見て候補を決める。ホストファミリーとなる私たちも書類を整え、保証人を見つけ、係の人が家庭訪問にやってきた。候補者と電話やEメールなどでやりとりをした後、お互いに「これはいける!」と思ったら契約が結ばれる。まるでお見合いだ。そうして、私たちは5人のオーペアのお世話になった。
***********************************
「コーコ」
一人目のオーペアは日本人のれいこさん。なぜか子供たちには「コーコ」と呼ばれていた。生後3ヶ月目に私も職場復帰したので、二人の乳児の世話は大学を卒業して間もないコーコがしてくれたのである。
若いのにとてもしっかりした女の子で、子育て、家事を完璧にこなしてくれた。離乳食もすべて手作り。私がつい甘えて残業続きになると、「赤ちゃんでもお母さんとのスキンシップが必要なんですから、たまには早く帰ってきてあげて下さいね!」としかられたりもした。コーコに言われると私も「はい。すみません。」と言わざるをえない。
家に帰ってくると「今日は妙ちゃんが10秒くらいおすわりしましたよ〜」と報告してくれる。妙ちゃんの最初の一歩を目撃したのもコーコだ。そして、チャーリーの手を取って歩く練習をさせてくれたのもコーコだ。私の愚痴を聞いてくれたのもコーコだ。
「ウナ」
次に来てくれたのはコーコの妹のゆうこさん。なぜか子供たちには「ウナ」と呼ばれていた。ウナは子供たちに幼児手話を教えてくれた。そういうものがあるということさえ知らなかった私。「ちょうだい」とか、「お風呂」とか「ミルク」を手話で伝えれるようになった子供たちを見てびっくり。
ウナが我が家にいた年に大事件が2つ起きた。一つは911テロ、そしてもう一つは親友デーナの事故死だった。
ニューヨークに住んでいた頃、父のオフィスは双子ビルの中にあった。父と二人暮らしだったので、よく学校帰りに父のオフィスに寄り、いっしょに家に帰ったものだ。日本からお客様が来ると必ず双子ビルの展望台に上り、レストランで食事をした。1階にあった本屋さんはアート関係の本をよくセールに出していたので、いつも立ち寄っていた。耳がぼわーんとなる高速エレベーター。オフィスの天井から吊るしたユーラユーラと揺れる振り子。(父の同僚が「こんなに高いビルは揺れるように作ってあるんだよ。そうでないと、地震の時にボキって折れてしまうんだよ。」と安心させようとしてくれた。)巨大な地下駐車場。すべてが目の前のテレビの画面の中で燃え、崩れ落ちて行く。同僚といっしょに教室のテレビの画面を呆然と見ていると、テレビの画面に急に一角から煙の出ているペンタゴンがうつる。女子教職員はみんな泣き出し、男の人たちの中にも必死に涙をこらえている人が数人いた。
テロに使われた飛行機の1機がボストンから出たということもあり、ボストンはぴりぴりしていた。数週間はほとんど外に出ず、始終頭上でヘリコプターや軍用機の飛ぶ音が聞こえていた。学校も緊急体制を整え、テロに備えた。緊張の休まることのなかった1ヶ月。
親友のデーナがハーバード大学近くで自転車事故に遭い、即死したという電話が入ったのはアスファルトが足の下でぐにゃりとなるほど暑かった7月2日。遠距離に住んでいる彼女の夫からの電話だった。
テキサスに住んでいるデーナの母親が取り乱しているので、まず彼女の実家に寄ってからボストンに行くのでかわりに警察とやりとりをしてほしいということだった。結局その夜から3日間ぶっとうしで、警察とのやり取り、遺体確認の手続き、葬儀を行う教会への連絡、彼女の知人友人への連絡など、主のいなくなった彼女のアパートに泊まり込んでした。
大学院の博士課程で勉強していた才女。30以上のフルマラソンを完走したスポーツウーマン。単独でアラスカの大地をカヤックで旅した冒険好きのロマンチシスト。自分が女性であることを誇りに思っていたフェミニスト。そして何があっても必ず味方になってくれた親友。その親友を亡くして5日間はショックで何もできなかった。仕事にも行けなかった。子供のことも考えることが出来なかった。夫は東南アジアへ長期研究に出ていて、連絡さえ取れない。そんなとき、ウナは「子供たちは私が見ててあげるから、帰って来たい時に帰ってきていいよ。」と言ってくれた。ラッキーなことに、その時たまたま「ウナママ」(ウナのおかあさん)が遊びに来ていて、二人で子供たちを見てくれた。
数日ぶりに家に帰って来ると、子供たちが笑顔いっぱいで出迎えてくれた。子供たちの顔を見たら、また涙が出てきた。デーナは子供たちのことをとてもかわいがってくれていたからだ。あれから7年たった。
「イルゼ」
その次のイルゼは北欧のラトピアから来てくれた。にんじんが大好きで、毎日2−3本ばりぼりとアメリカ漫画のバックスバニーのように食べていた。子供たちもそのまねをして、毎日1本ずつばりぼりと生のにんじんを食べるようになった。
寒い国の出身だけあって、冬が大好き、雪が大好き。そして、自然が大好き。どんなに寒かろうと、毎日子供たちを乳母車に乗せて外へ連れて行ってくれた。零下15度くらいになってまさか今日は外には出てないだろうと思っていた日も、帰ってみると「ほっぺたにワセリンたっぷり塗って、しっかり厚着して、除雪された車道を通って散歩に行った。」と言うのでぶったまげた。(あとから調べてわかったことであるが、ワセリンを塗っても凍傷は防げない。)あとで写真を見せてもらうと、たしかに子供たちは大変な厚着をさせられているためころころで、腕が上がったまま、かかしのようにして立っている。子供たちは雪を食べることを学び、新雪の上にスノーエンジェルを作ることを学んだ。
一つだけ困ったのは彼女の料理のレパートリーが非常に狭いことであった。お肉、ジャガイモ、タマネギとにんじんを使ったシチューしか作れなかったのだ。多分、家ではそれくらいのものしか食べていなかったのだと思う。電子レンジや全自動洗濯機は、うちに来て初めて使い方を学んだくらいだから。
「コイ」
イルゼの次は、やっぱりお米を主食とする国の女の子にしようと、タイから日本語の勉強もしたことのあるコイに来てもらった。
とても華奢なコイに2人乗りの乳母車は押せなかった上、運転が嫌いだったので、子供たちはどこへ行くにも歩いて連れて行かれた。コイは大のアート好き。毎日子供たちといっしょに絵を書いたり、クラフトをしたりしてくれた。妙ちゃんの芸術的才能はこの時に開花し始めた。毎日画用紙5枚から10枚にすばらしい絵を描くのである。この頃に描いた絵2枚は今でも額に入れて、テレビルームに飾ってある。この時の「作品群」の量はすごいもので、いいものだけを取ってあるのだが、ポートフォリオ3冊とプラスチックのケースひとついっぱいに入っている。いつの日か仕事から引退した時に引っ張りだして整理しようと思っている。
コイには、ひとつかわいそうなボストン逸話がある。
ある夜、魔女狩りで有名なセーラムから帰ってきたコイが「ちょっと聞きたいんですけど。」と少ししょんぼりして言ってきた。話を聞くと、見も知らぬアメリカ人が彼女のかぶっていた野球帽を指差して「よく、そんなものかぶっていられるね。」と言ったというのである。それが、初めてではなく、過去にもボストン市内で2回ほどその野球帽を指差して何か言われたという。その野球帽とやらを見せてもらうと、何とNYヤンキースの野球帽だったのだ。ボストン・レッド・ソックスとニューヨーク・ヤンキースは阪神巨人と同様宿敵、ライバル。「そりゅあ、だめだわ!」と私も思わず笑ってしまった。
オーペアは全員アメリカに到着してまず1週間の研修が義務付けられている。コイはニューヨークでこの研修を受けてきた。その時に買った野球帽が、ヤンキースのロゴ付だったのだ。彼女はニューヨークのお土産のつもりで買ったものが、実は野球チームのロゴだとは思いもしなかったのである。遠いバンコックから来た女の子が、アメリカの野球のことなど知っているはずがない。
真相を知った彼女はほっとして、野球帽はバンコックに帰るまでしまっておくことにした。
「ミーコ」
その次の女の子もタイから来たミーコである。タイのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業したミーコは、勉強好きの家庭教師タイプ。ミーコは子供たちにタイ語を教え、夫のためにタイ語の資料を英語に翻訳してくれた。今でも、私の姑のシルク・ビジネスをサポートしてくれている。
タイの女の子たちは信心深く、家族との繋がりも深い。料理や家事もすでに母親にかわってしている子が多かったから、料理も上手だった。週末はタイ人の集まるお寺へ行き、その他は私たち家族と過ごす時間が多かった。たまにタイ人のオーペアたちがうちに集まって、キッチンの床に座り込んでぺちゃくちゃとおしゃべりしながらタイ料理を作ってくれた。わたしもグリーン・パパイヤ・サラダの作り方を教えてもらった。
コイとミーコがいっしょに住んでくれていた時にはいつも家の中がタイ米のいい香りがしていた。仕事から帰った時にお米が炊けているというのはとってもうれしいものだ。彼女たちが帰った後も我が家では、必ず日本米とタイ米を置いておかずによって使い分けている。私が作るカレーは日本のルーにココナツミルクを入れ、タイ米を使う。
**************************************
振り返ってみると、我が家はとてもラッキーだった。
オーペアはみんなとてもいい女の子たちだったし、みんなそれぞれ違う、素晴らしいものを子供たちにプレゼントしてくれた。母親の私がつきっきりで子供たちの面倒を一切見ていても、あの女の子たちの5人分の才能と献身とエネルギーにはかなわなかったと思う。現在もまだ5人とは連絡を取り合っている。2年前にはタイに行って、コイとミーコに会ってきた。コーコはもうお母さんになっている。ウナは結婚し、イルゼも婚約した。みんなきっとすばらしい女性、お母さんになると思う。
子供たちも小学生になり、学校の延長プログラムに参加するようになってから、オーペアは必要ではなくなった。去年は近くの保育園で働くジャスミンおねえさんがいっしょに住んでくれて、私と夫だけではカバーできない部分を手伝ってくれた。日米ハーフ(ダブル?)のジャスミンは日本語もできるので、子供たちの英語の宿題も日本語の勉強もみてくれた。同じく2つの国のもとで生まれ、2つの文化を上手に融和させているジャスミンから、日本の文化もアメリカの文化もどちらも素晴らしいのだということを学んでくれたと思っている。そのジャスミンもこの秋から大学院で教員になる勉強をするため、家から出て行く。
いよいよ、我が家も自分たちだけでサバイブできるか??
いやいや、情けないことに実際には自分たちだけでのサバイブは不可能なんです。近くで、また遠くで私たちのことを助けてくれて、サポートしてくれる人たちのお陰で、アビューザ家はサバイブしています。皆様、どうもありがとうございます。
オーペアとは?アメリカの家庭で家族の一員として住み、子供たちの世話をしながら英語を学び、アメリカ文化に触れるために、1年から2年間渡米する外国人の若者だ。政府が承認しているいくつかのエージェンシーを通して、世界中からやってくる住み込みベビーシッター・お姉さんたち(ほとんどが女子)。うちの子供たちはこの女の子たちのおかげで元気に育ち、私たち親は安心して仕事を続けられた。
アメリカの保育園はかなりお金がかかる。1歳以下の乳児の場合、9年前でも最低1ヶ月$900した。うちは双子だからその2倍。2人目からは割引が利くところもあるが、そういうところはもともとの値段が$1200と割高である。それに、これは9時から5時までのお値段だから、延長保育をしてもらうともっとかかるのである。だから、アメリカの共働きの家庭で2人以上子供がいたら、オーペアに来てもらった方が割安になる。
当時、オーペア・エージェンシーにはプログラム費(航行料、保険、手数料など)約$6,000を払い、オーペアには週$135ほどをお小遣いとして渡すシステムになっていた。オーペアは週に35時間まで子供の世話をするのが仕事で、その他は英語の授業をとったり、家族とすごしたり、家事を手伝ったり、友達と遊びに行ったりする。いっしょに住んでいるので、子供が病気をしても親は安心して仕事に出かけることができる。
オーペアの選考基準はきちんと定められており、あらゆる書類の他、個人面接の記録なども渡され、それを見て候補を決める。ホストファミリーとなる私たちも書類を整え、保証人を見つけ、係の人が家庭訪問にやってきた。候補者と電話やEメールなどでやりとりをした後、お互いに「これはいける!」と思ったら契約が結ばれる。まるでお見合いだ。そうして、私たちは5人のオーペアのお世話になった。
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「コーコ」
一人目のオーペアは日本人のれいこさん。なぜか子供たちには「コーコ」と呼ばれていた。生後3ヶ月目に私も職場復帰したので、二人の乳児の世話は大学を卒業して間もないコーコがしてくれたのである。
若いのにとてもしっかりした女の子で、子育て、家事を完璧にこなしてくれた。離乳食もすべて手作り。私がつい甘えて残業続きになると、「赤ちゃんでもお母さんとのスキンシップが必要なんですから、たまには早く帰ってきてあげて下さいね!」としかられたりもした。コーコに言われると私も「はい。すみません。」と言わざるをえない。
家に帰ってくると「今日は妙ちゃんが10秒くらいおすわりしましたよ〜」と報告してくれる。妙ちゃんの最初の一歩を目撃したのもコーコだ。そして、チャーリーの手を取って歩く練習をさせてくれたのもコーコだ。私の愚痴を聞いてくれたのもコーコだ。
「ウナ」
次に来てくれたのはコーコの妹のゆうこさん。なぜか子供たちには「ウナ」と呼ばれていた。ウナは子供たちに幼児手話を教えてくれた。そういうものがあるということさえ知らなかった私。「ちょうだい」とか、「お風呂」とか「ミルク」を手話で伝えれるようになった子供たちを見てびっくり。
ウナが我が家にいた年に大事件が2つ起きた。一つは911テロ、そしてもう一つは親友デーナの事故死だった。
ニューヨークに住んでいた頃、父のオフィスは双子ビルの中にあった。父と二人暮らしだったので、よく学校帰りに父のオフィスに寄り、いっしょに家に帰ったものだ。日本からお客様が来ると必ず双子ビルの展望台に上り、レストランで食事をした。1階にあった本屋さんはアート関係の本をよくセールに出していたので、いつも立ち寄っていた。耳がぼわーんとなる高速エレベーター。オフィスの天井から吊るしたユーラユーラと揺れる振り子。(父の同僚が「こんなに高いビルは揺れるように作ってあるんだよ。そうでないと、地震の時にボキって折れてしまうんだよ。」と安心させようとしてくれた。)巨大な地下駐車場。すべてが目の前のテレビの画面の中で燃え、崩れ落ちて行く。同僚といっしょに教室のテレビの画面を呆然と見ていると、テレビの画面に急に一角から煙の出ているペンタゴンがうつる。女子教職員はみんな泣き出し、男の人たちの中にも必死に涙をこらえている人が数人いた。
テロに使われた飛行機の1機がボストンから出たということもあり、ボストンはぴりぴりしていた。数週間はほとんど外に出ず、始終頭上でヘリコプターや軍用機の飛ぶ音が聞こえていた。学校も緊急体制を整え、テロに備えた。緊張の休まることのなかった1ヶ月。
親友のデーナがハーバード大学近くで自転車事故に遭い、即死したという電話が入ったのはアスファルトが足の下でぐにゃりとなるほど暑かった7月2日。遠距離に住んでいる彼女の夫からの電話だった。
テキサスに住んでいるデーナの母親が取り乱しているので、まず彼女の実家に寄ってからボストンに行くのでかわりに警察とやりとりをしてほしいということだった。結局その夜から3日間ぶっとうしで、警察とのやり取り、遺体確認の手続き、葬儀を行う教会への連絡、彼女の知人友人への連絡など、主のいなくなった彼女のアパートに泊まり込んでした。
大学院の博士課程で勉強していた才女。30以上のフルマラソンを完走したスポーツウーマン。単独でアラスカの大地をカヤックで旅した冒険好きのロマンチシスト。自分が女性であることを誇りに思っていたフェミニスト。そして何があっても必ず味方になってくれた親友。その親友を亡くして5日間はショックで何もできなかった。仕事にも行けなかった。子供のことも考えることが出来なかった。夫は東南アジアへ長期研究に出ていて、連絡さえ取れない。そんなとき、ウナは「子供たちは私が見ててあげるから、帰って来たい時に帰ってきていいよ。」と言ってくれた。ラッキーなことに、その時たまたま「ウナママ」(ウナのおかあさん)が遊びに来ていて、二人で子供たちを見てくれた。
数日ぶりに家に帰って来ると、子供たちが笑顔いっぱいで出迎えてくれた。子供たちの顔を見たら、また涙が出てきた。デーナは子供たちのことをとてもかわいがってくれていたからだ。あれから7年たった。
「イルゼ」
その次のイルゼは北欧のラトピアから来てくれた。にんじんが大好きで、毎日2−3本ばりぼりとアメリカ漫画のバックスバニーのように食べていた。子供たちもそのまねをして、毎日1本ずつばりぼりと生のにんじんを食べるようになった。
寒い国の出身だけあって、冬が大好き、雪が大好き。そして、自然が大好き。どんなに寒かろうと、毎日子供たちを乳母車に乗せて外へ連れて行ってくれた。零下15度くらいになってまさか今日は外には出てないだろうと思っていた日も、帰ってみると「ほっぺたにワセリンたっぷり塗って、しっかり厚着して、除雪された車道を通って散歩に行った。」と言うのでぶったまげた。(あとから調べてわかったことであるが、ワセリンを塗っても凍傷は防げない。)あとで写真を見せてもらうと、たしかに子供たちは大変な厚着をさせられているためころころで、腕が上がったまま、かかしのようにして立っている。子供たちは雪を食べることを学び、新雪の上にスノーエンジェルを作ることを学んだ。
一つだけ困ったのは彼女の料理のレパートリーが非常に狭いことであった。お肉、ジャガイモ、タマネギとにんじんを使ったシチューしか作れなかったのだ。多分、家ではそれくらいのものしか食べていなかったのだと思う。電子レンジや全自動洗濯機は、うちに来て初めて使い方を学んだくらいだから。
「コイ」
イルゼの次は、やっぱりお米を主食とする国の女の子にしようと、タイから日本語の勉強もしたことのあるコイに来てもらった。
とても華奢なコイに2人乗りの乳母車は押せなかった上、運転が嫌いだったので、子供たちはどこへ行くにも歩いて連れて行かれた。コイは大のアート好き。毎日子供たちといっしょに絵を書いたり、クラフトをしたりしてくれた。妙ちゃんの芸術的才能はこの時に開花し始めた。毎日画用紙5枚から10枚にすばらしい絵を描くのである。この頃に描いた絵2枚は今でも額に入れて、テレビルームに飾ってある。この時の「作品群」の量はすごいもので、いいものだけを取ってあるのだが、ポートフォリオ3冊とプラスチックのケースひとついっぱいに入っている。いつの日か仕事から引退した時に引っ張りだして整理しようと思っている。
コイには、ひとつかわいそうなボストン逸話がある。
ある夜、魔女狩りで有名なセーラムから帰ってきたコイが「ちょっと聞きたいんですけど。」と少ししょんぼりして言ってきた。話を聞くと、見も知らぬアメリカ人が彼女のかぶっていた野球帽を指差して「よく、そんなものかぶっていられるね。」と言ったというのである。それが、初めてではなく、過去にもボストン市内で2回ほどその野球帽を指差して何か言われたという。その野球帽とやらを見せてもらうと、何とNYヤンキースの野球帽だったのだ。ボストン・レッド・ソックスとニューヨーク・ヤンキースは阪神巨人と同様宿敵、ライバル。「そりゅあ、だめだわ!」と私も思わず笑ってしまった。
オーペアは全員アメリカに到着してまず1週間の研修が義務付けられている。コイはニューヨークでこの研修を受けてきた。その時に買った野球帽が、ヤンキースのロゴ付だったのだ。彼女はニューヨークのお土産のつもりで買ったものが、実は野球チームのロゴだとは思いもしなかったのである。遠いバンコックから来た女の子が、アメリカの野球のことなど知っているはずがない。
真相を知った彼女はほっとして、野球帽はバンコックに帰るまでしまっておくことにした。
「ミーコ」
その次の女の子もタイから来たミーコである。タイのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業したミーコは、勉強好きの家庭教師タイプ。ミーコは子供たちにタイ語を教え、夫のためにタイ語の資料を英語に翻訳してくれた。今でも、私の姑のシルク・ビジネスをサポートしてくれている。
タイの女の子たちは信心深く、家族との繋がりも深い。料理や家事もすでに母親にかわってしている子が多かったから、料理も上手だった。週末はタイ人の集まるお寺へ行き、その他は私たち家族と過ごす時間が多かった。たまにタイ人のオーペアたちがうちに集まって、キッチンの床に座り込んでぺちゃくちゃとおしゃべりしながらタイ料理を作ってくれた。わたしもグリーン・パパイヤ・サラダの作り方を教えてもらった。
コイとミーコがいっしょに住んでくれていた時にはいつも家の中がタイ米のいい香りがしていた。仕事から帰った時にお米が炊けているというのはとってもうれしいものだ。彼女たちが帰った後も我が家では、必ず日本米とタイ米を置いておかずによって使い分けている。私が作るカレーは日本のルーにココナツミルクを入れ、タイ米を使う。
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振り返ってみると、我が家はとてもラッキーだった。
オーペアはみんなとてもいい女の子たちだったし、みんなそれぞれ違う、素晴らしいものを子供たちにプレゼントしてくれた。母親の私がつきっきりで子供たちの面倒を一切見ていても、あの女の子たちの5人分の才能と献身とエネルギーにはかなわなかったと思う。現在もまだ5人とは連絡を取り合っている。2年前にはタイに行って、コイとミーコに会ってきた。コーコはもうお母さんになっている。ウナは結婚し、イルゼも婚約した。みんなきっとすばらしい女性、お母さんになると思う。
子供たちも小学生になり、学校の延長プログラムに参加するようになってから、オーペアは必要ではなくなった。去年は近くの保育園で働くジャスミンおねえさんがいっしょに住んでくれて、私と夫だけではカバーできない部分を手伝ってくれた。日米ハーフ(ダブル?)のジャスミンは日本語もできるので、子供たちの英語の宿題も日本語の勉強もみてくれた。同じく2つの国のもとで生まれ、2つの文化を上手に融和させているジャスミンから、日本の文化もアメリカの文化もどちらも素晴らしいのだということを学んでくれたと思っている。そのジャスミンもこの秋から大学院で教員になる勉強をするため、家から出て行く。
いよいよ、我が家も自分たちだけでサバイブできるか??
いやいや、情けないことに実際には自分たちだけでのサバイブは不可能なんです。近くで、また遠くで私たちのことを助けてくれて、サポートしてくれる人たちのお陰で、アビューザ家はサバイブしています。皆様、どうもありがとうございます。
2009年7月17日金曜日
コミュニティー・サステインド・アグリカルチャー
「地域支援農業」とでも訳せばいいのでしょうか。普通 Community Sustained Agriculture - CSA と呼ばれ、こちらではかなり定着してきている。簡単に説明すると、農家と消費者が年間契約を結ぶのだ。これは地元の農業を守ると同時に、消費者としては質の高い新鮮な食べ物を購入することができる。ほとんどの CSA は無農薬農家である。
イプスイッチの町にはアメリカで最古の連続経営農場アップルトン・ファームがある。アップルトン氏はイプスイッチを植民地化した最初のグループの一人としてこの土地にやってきた。その農場は近年、地元の非営利団体に寄付され、新たに地域支援型無農薬農場として経営されることになった。
年会費(シェア)$600で6月上旬から10月下旬まで、毎週1回農作物をブラウンバッグいっぱいもらえる。だいたい野菜をたくさん食べる5人家族が1週間食べれるくらいの量である。無農薬、ホルモン剤不使用の飼料で育てられている牛もおり、牛肉も別に買うことが出来る。時々、ガーリック・フェスティバルとか収穫祭などのイベントもあり、会員同士の交流も楽しい。
実は、うちはここの会員になるために3年間もウエイティング・リストにのせてもらって待っていた。去年とうとう夫が我慢しきれずに「アップルトン・ファームなんてくそくらえだ!いつまで待てばいいんだよ!じぶんで畑つくってやらあ〜!」(子供には聞かせれないような英語で息まくった)と言って裏庭の芝生を掘り下げ、5m x10mくらいの大きさの畑を作ってしまった。そこにはトマト、豆、レタス、ズッキーニー、ガーリック、なすび、キャベツなどの他に葉っぱをみただけでは何なのかわからないものがいっぱい並んでいる。畑は夫の管轄下なので、私にはよくわからないのである。
我が家では毎年5月の母の日の週末が「畑開き」と決まっている。毎年4mx5mくらいの小さい畑にトマトや豆などをこじんまりと植えていたのだが、去年からは夫と子供たちで丸2日費やして畑の準備をして種をまいたり、苗を植えたりした。5月と6月は畑の世話がかなりハードだが、ある程度作物も大きくなるとあとは楽だ。
そんなとき、アップルトン・ファームから「あなたの番が回ってきました。来週から収穫がはじまりますので、記入した申し込み用紙と入金をお願いします。」との連絡が入ってきた。
うちの畑だけでもかなりの収穫があるので迷ったのだが、ここで辞退すると今度加入したい時にまた数年待たされる。子供たちもこれからどんどん食欲が増してくることを考えると、加入しておいた方がいいだろう。それにうちは秋野菜は作らないので、それもほしい。ということで、同じ町に住む牧ちゃんち(ベビーを入れて3人家族)と雅代ちゃんち(彼と二人暮らし)とでシェアを分けることにした。我が家が50%、牧ちゃんと雅代ちゃんはそれぞれ25%分のお野菜をもらう。
今の時期はレタスや人参、水菜、白菜、ボックチョイ、スイスチャード、他さまざまな根菜、葉っぱのお野菜が並んでいる。スーパーでは買えないもの、見たこともないようなめずらしいお野菜もたくさん並んでいる。その日の朝採れたばかりのぴちぴちの野菜だ。その中から自分のほしいものを袋に詰めて行く。
自分のシェアを取りに行くたびに、自分で収穫できるものもある。たとえば、先週はいちご取り放題、今週はまめを1クオートと花10本。畑に出て行き、収穫する。たかが2、30分のことなのだが、暑いし、腰は痛いしで結構大変だ。お百姓さんは本当に大変なんだなあと身をもって感じる。こどもを連れてくる人も多く、たいていの子供たちは自分でむしった生野菜をばりぼり食べながら親のあとにくっついて歩いている。
自分で育てた野菜を食べるのはうれしいものだが、それを家族や友達に分けてあげたり、ごちそうしたりするのはより楽しい。
でも、一番楽しいのは雪の降り積もる真冬の1月くらいに、夏の終わりに瓶詰めにしたトマトソースやジャムを開たり、ペスト(バジルで作った「夏の香り」のするペースト状のもの)を解凍したりして、つかの間だけ夏を懐かしむ料理を頂く時だ。我が家は燃料費を節約するために、ダイニング・ルームでは薪ストーブを使っている。その上のヤカンがしゅんしゅんなっている中で、夏の香りの食事をすると、「この寒さもあと3ヶ月の辛抱」と自分に言い聞かせて長い冬を乗り切るのである。
イプスイッチの町にはアメリカで最古の連続経営農場アップルトン・ファームがある。アップルトン氏はイプスイッチを植民地化した最初のグループの一人としてこの土地にやってきた。その農場は近年、地元の非営利団体に寄付され、新たに地域支援型無農薬農場として経営されることになった。
年会費(シェア)$600で6月上旬から10月下旬まで、毎週1回農作物をブラウンバッグいっぱいもらえる。だいたい野菜をたくさん食べる5人家族が1週間食べれるくらいの量である。無農薬、ホルモン剤不使用の飼料で育てられている牛もおり、牛肉も別に買うことが出来る。時々、ガーリック・フェスティバルとか収穫祭などのイベントもあり、会員同士の交流も楽しい。
実は、うちはここの会員になるために3年間もウエイティング・リストにのせてもらって待っていた。去年とうとう夫が我慢しきれずに「アップルトン・ファームなんてくそくらえだ!いつまで待てばいいんだよ!じぶんで畑つくってやらあ〜!」(子供には聞かせれないような英語で息まくった)と言って裏庭の芝生を掘り下げ、5m x10mくらいの大きさの畑を作ってしまった。そこにはトマト、豆、レタス、ズッキーニー、ガーリック、なすび、キャベツなどの他に葉っぱをみただけでは何なのかわからないものがいっぱい並んでいる。畑は夫の管轄下なので、私にはよくわからないのである。
我が家では毎年5月の母の日の週末が「畑開き」と決まっている。毎年4mx5mくらいの小さい畑にトマトや豆などをこじんまりと植えていたのだが、去年からは夫と子供たちで丸2日費やして畑の準備をして種をまいたり、苗を植えたりした。5月と6月は畑の世話がかなりハードだが、ある程度作物も大きくなるとあとは楽だ。
そんなとき、アップルトン・ファームから「あなたの番が回ってきました。来週から収穫がはじまりますので、記入した申し込み用紙と入金をお願いします。」との連絡が入ってきた。
うちの畑だけでもかなりの収穫があるので迷ったのだが、ここで辞退すると今度加入したい時にまた数年待たされる。子供たちもこれからどんどん食欲が増してくることを考えると、加入しておいた方がいいだろう。それにうちは秋野菜は作らないので、それもほしい。ということで、同じ町に住む牧ちゃんち(ベビーを入れて3人家族)と雅代ちゃんち(彼と二人暮らし)とでシェアを分けることにした。我が家が50%、牧ちゃんと雅代ちゃんはそれぞれ25%分のお野菜をもらう。
今の時期はレタスや人参、水菜、白菜、ボックチョイ、スイスチャード、他さまざまな根菜、葉っぱのお野菜が並んでいる。スーパーでは買えないもの、見たこともないようなめずらしいお野菜もたくさん並んでいる。その日の朝採れたばかりのぴちぴちの野菜だ。その中から自分のほしいものを袋に詰めて行く。
自分のシェアを取りに行くたびに、自分で収穫できるものもある。たとえば、先週はいちご取り放題、今週はまめを1クオートと花10本。畑に出て行き、収穫する。たかが2、30分のことなのだが、暑いし、腰は痛いしで結構大変だ。お百姓さんは本当に大変なんだなあと身をもって感じる。こどもを連れてくる人も多く、たいていの子供たちは自分でむしった生野菜をばりぼり食べながら親のあとにくっついて歩いている。
自分で育てた野菜を食べるのはうれしいものだが、それを家族や友達に分けてあげたり、ごちそうしたりするのはより楽しい。
でも、一番楽しいのは雪の降り積もる真冬の1月くらいに、夏の終わりに瓶詰めにしたトマトソースやジャムを開たり、ペスト(バジルで作った「夏の香り」のするペースト状のもの)を解凍したりして、つかの間だけ夏を懐かしむ料理を頂く時だ。我が家は燃料費を節約するために、ダイニング・ルームでは薪ストーブを使っている。その上のヤカンがしゅんしゅんなっている中で、夏の香りの食事をすると、「この寒さもあと3ヶ月の辛抱」と自分に言い聞かせて長い冬を乗り切るのである。
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