2009年11月9日月曜日

秋の動物たち

仕事帰り。国道からイプスイッチのダウンタウンに続くローカル道路に入る。両側が州立公園で、イプスイッチ川に沿って走るくねくねの田舎道だ。対向車がヘッドライトをちかちかさせる。これは、先にスピード取り締まりのパトカーがひそんでいるか、道を渡ろうとしている鹿がいるかどちらかの合図である。スピード違反の罰金を払わされる事よりもこわいのは、鹿に衝突することだ。下手すると何百ドルもの修理代がかかったり、車に乗っている方も重症を負う事もある。

秋にはいろいろな動物が活発に動き回る。特に夜や、日の出、日没の頃に移動する動物が多い。

秋には子鹿たちも大きくなって、おかあさんたちといっしょにあちこち歩き回れる。雄は交尾の時期でもあるので、食べ物や雌を探し求めて動き回る。雌と子鹿たちは数頭くらいの群れになって森から出て来て、原っぱで草を食べる。敵から身を守るために、原っぱに出ていてもすぐ逃げ込めれるように森の近くに陣取ることが多い。原っぱを歩き回ると、鹿の通り道があるのに気がつく。同じ道を通るから、そこの部分だけ草が倒れているし、糞が道しるべのようにぽろぽろと落ちている。

近所の家の裏の穴蔵に住む狐の子達は、この夏母親が交通事故で死んでしまったので、無事に育つだろうかと心配していたが、先日夜の8時頃、一匹道を横切っているのを見かけてほっとした。野生の動物の孤児にはえさをやってはいけない。人から食べる物を貰う事を知ってしまうと、人を怖がらなくなり、反対に危害を加えるようになる事があるからだ。そのような危害が出たら、すぐにその動物を殺さなくてはならない。だから、このかわいそうな孤児の狐たちも遠くから見守るしかなかったのである。

秋の狐はあまりきれいではない。冬に向けて毛が生え変わっている最中なので、全身がぼさぼさで貧弱に見える。でも、冬の狐は美しい。一度だけ真冬に明るい月を背にして雪の原っぱに立っている狐を見たが、毛が月の光できらきらしていた。

秋、月のきれいな夜にフクロウに会いに行くのも楽しい。人間を敵ではないと知っているのか、あまり逃げない。運がいいと、懐中電灯の光に照らし出されるフクロウを見る事が出来る。こちらの呼びかけに答えてくれるフクロウもいる。「ホッ、ホーー、ホー、ホー、ホー」と呼びかけると、同じように答えてくる。個体によって音程が微妙に違うし、ちょっとだみ声のフクロウなどもいてなかなかおもしろい。

スカンクのにおいは、秋のにおい。スカンクはなぜか春と秋によく交通事故で死ぬ。だからこの季節には、車を運転していると交通事故で死んだスカンクのムスクのにおいがしてくることがある。犬がスカンクに噴射されるのもこの時期だ。まともに顔に噴射されると、かわいそうに犬は一生懸命顔を前足でごしごしとこするのだが、どうにもならない。そのまま家に入れると、家中スカンクのにおいがするし、服にもそのにおいが染み付いてしまう。こんな時のために我が家ではトマトジュースを6リットルほど常備してある。犬を庭につないで逃げれないようにして、トマトジュースで頭からしっぽまで洗う。

トマトジュースのあとはバスタブに入れて犬のシャンプーで何回も洗っては流す。やっとそれが終わってバスタブから出してもらえた犬は、毛が体に張り付きなんとも情けない表情をしてバスルームの端っこで小さくなっている。ドライヤーの熱い風を吹き付けられるころには、もうあきらめの境地だ。半乾きになったところでやっと解放。家の中を走り回り、自分のベッドとレスリングを始める。ストレスを発散しているのだろう。これに懲りて、もうスカンクには近づいてもらいたくない。

霜が降りて秋も深まる頃、外の寒さをしのぐために家に入って来る動物もいる。その一つはてんとう虫だ。てんとう虫は暖かくて湿気のあるバスルームが大好きだ。てんとう虫は花につく害虫を食べるので「家で冬を越してね」と言ってそのままにしている。

ところがやっかいなのが野ネズミである。寒くなって来ると、ドングリやドッグフードをせっせと3階の床下に貯め込み始めるのである。私たち夫婦の寝室は2階なのだが、夜うとうとするころになると、「ころころころ」「ちゃ、ちゃ、ちゃ」(走る音)と頭の真上でまるで運動会の玉転がし競争である。最初の2−3日はだんなに「ちょっとねずみなんとかしてよ」と言っても「うーん。気のせいだよ。ねずみなんていないよ。」とふとんをかぶって寝てしまっていた。子供たちに話すと「ねずみのひっこし」(絵本)で育ったこどもたちは「かわいそうじゃ〜ん。家に置いてあげようよ。」と言う。君たちはすぐ寝入ってしまうけど、私は毎晩寝れないんだよ〜!

私ももうあきらめて何も言わずに布団に入ったある夜、運動会がまたいつも通り始まった。しばらくするとだんながカバッと飛び起き、「!*&?!」とここでは書けないような暴言をはき、どんどんどんと階段をあがっていく音がした。床板をはずしてがたごとと音を立てている。10分ほどして彼はベッドに戻って来てまた寝てしまった。次の夜からはもうネズミはいなくなってしまった。どうしたのかは知りたくないので、きいていない。

秋と言えば感謝祭。感謝祭といえば七面鳥。七面鳥は頭があまりよろしくないことで知られている。馬鹿な七面鳥は車体に移った自分の姿を侵入者と間違えて攻撃するものだから、買って1週間しか経っていない新車のボディーにつつきあとがついてしまったこともある。本当かどうかは知らないが、雨降る空を見上げて溺れ死んだ七面鳥の話も聞いた事がある。

七面鳥はあまり飛べないが、低い木の枝に飛び乗ったり、低い柵を飛び越えるくらいならできる。ある朝、学校のテニスコートに七面鳥が7−8羽閉じ込められていた。テニスコートの周りに張ってある柵の扉は閉まっていたので、当然飛んで入ったのに違いないのだが、飛んで出るという発想ができずに、パニック状態でテニスコートの中を走り回っている。柵の扉を開けてあげても、そこからは出ようとせず、とうとうメインテナンスの大きなおじさんに来てもらって、テニスコートから追い出してもらった。

我が家では、秋の動物と言えば雉の出番である。夫は雉狩りが大好きで、朝の4時半ごろから犬のアディーといっしょに家を出ていく。私も週末などにいっしょにお供することもあるが、草原の散策ついでに雉が出てくればラッキーくらいに気軽な気持ちで猟に行く。新鮮な空気を吸って、いろいろな動物を見て軽い運動になればそれでいいと思っている。夫は鴨狩りも好きなのだが、湿地帯で水の中をざぶざぶ歩き回るのはいやなので私はしない。でも、鳥の中では鴨が一番おいしいと思う。

秋には鹿、熊、雉、鴨などの猟が解禁となる。猟をしていて、その存在を改めて認識させられるのはコヨーテや鷹など野生動物のハンターたちだ。岩場に鷹が食べかけている雉の死骸があったり、コヨーテにちぎられ、食べられた鹿の死骸などを見かける。狩る者と狩られる者がいるという事実。両者の存在があってこそ自然のバランスが保たれるのだが、コヨーテと自分とは食物連鎖上のどんな位置関係にいるのだろうかとふと考えたりする。やはりコヨーテが同じ森や野原にいるのかと思うと少し背筋が寒くなる。

人間はつい自分たちがこの地球の支配者の様に考えてしまうけれども、森の中に入ってしまうと自分もこの大きな自然の中にいる何億という生体中のたった一個体であり、自分にも天敵はいるのだということを認識させられる。

自然は私を謙虚にしてくれる。



雉狩りのあと(向かって左端が私)

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