2009年7月20日月曜日

オーペア

うちはオーペアなしではサバイブできなかった。子供たちが生まれて小学校1年生になるまでは、オーペアのおかげでアビューザ家はなんとかサバイブしたのだ。

オーペアとは?アメリカの家庭で家族の一員として住み、子供たちの世話をしながら英語を学び、アメリカ文化に触れるために、1年から2年間渡米する外国人の若者だ。政府が承認しているいくつかのエージェンシーを通して、世界中からやってくる住み込みベビーシッター・お姉さんたち(ほとんどが女子)。うちの子供たちはこの女の子たちのおかげで元気に育ち、私たち親は安心して仕事を続けられた。

アメリカの保育園はかなりお金がかかる。1歳以下の乳児の場合、9年前でも最低1ヶ月$900した。うちは双子だからその2倍。2人目からは割引が利くところもあるが、そういうところはもともとの値段が$1200と割高である。それに、これは9時から5時までのお値段だから、延長保育をしてもらうともっとかかるのである。だから、アメリカの共働きの家庭で2人以上子供がいたら、オーペアに来てもらった方が割安になる。

当時、オーペア・エージェンシーにはプログラム費(航行料、保険、手数料など)約$6,000を払い、オーペアには週$135ほどをお小遣いとして渡すシステムになっていた。オーペアは週に35時間まで子供の世話をするのが仕事で、その他は英語の授業をとったり、家族とすごしたり、家事を手伝ったり、友達と遊びに行ったりする。いっしょに住んでいるので、子供が病気をしても親は安心して仕事に出かけることができる。

オーペアの選考基準はきちんと定められており、あらゆる書類の他、個人面接の記録なども渡され、それを見て候補を決める。ホストファミリーとなる私たちも書類を整え、保証人を見つけ、係の人が家庭訪問にやってきた。候補者と電話やEメールなどでやりとりをした後、お互いに「これはいける!」と思ったら契約が結ばれる。まるでお見合いだ。そうして、私たちは5人のオーペアのお世話になった。

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「コーコ」
一人目のオーペアは日本人のれいこさん。なぜか子供たちには「コーコ」と呼ばれていた。生後3ヶ月目に私も職場復帰したので、二人の乳児の世話は大学を卒業して間もないコーコがしてくれたのである。

若いのにとてもしっかりした女の子で、子育て、家事を完璧にこなしてくれた。離乳食もすべて手作り。私がつい甘えて残業続きになると、「赤ちゃんでもお母さんとのスキンシップが必要なんですから、たまには早く帰ってきてあげて下さいね!」としかられたりもした。コーコに言われると私も「はい。すみません。」と言わざるをえない。

家に帰ってくると「今日は妙ちゃんが10秒くらいおすわりしましたよ〜」と報告してくれる。妙ちゃんの最初の一歩を目撃したのもコーコだ。そして、チャーリーの手を取って歩く練習をさせてくれたのもコーコだ。私の愚痴を聞いてくれたのもコーコだ。

「ウナ」
次に来てくれたのはコーコの妹のゆうこさん。なぜか子供たちには「ウナ」と呼ばれていた。ウナは子供たちに幼児手話を教えてくれた。そういうものがあるということさえ知らなかった私。「ちょうだい」とか、「お風呂」とか「ミルク」を手話で伝えれるようになった子供たちを見てびっくり。

ウナが我が家にいた年に大事件が2つ起きた。一つは911テロ、そしてもう一つは親友デーナの事故死だった。

ニューヨークに住んでいた頃、父のオフィスは双子ビルの中にあった。父と二人暮らしだったので、よく学校帰りに父のオフィスに寄り、いっしょに家に帰ったものだ。日本からお客様が来ると必ず双子ビルの展望台に上り、レストランで食事をした。1階にあった本屋さんはアート関係の本をよくセールに出していたので、いつも立ち寄っていた。耳がぼわーんとなる高速エレベーター。オフィスの天井から吊るしたユーラユーラと揺れる振り子。(父の同僚が「こんなに高いビルは揺れるように作ってあるんだよ。そうでないと、地震の時にボキって折れてしまうんだよ。」と安心させようとしてくれた。)巨大な地下駐車場。すべてが目の前のテレビの画面の中で燃え、崩れ落ちて行く。同僚といっしょに教室のテレビの画面を呆然と見ていると、テレビの画面に急に一角から煙の出ているペンタゴンがうつる。女子教職員はみんな泣き出し、男の人たちの中にも必死に涙をこらえている人が数人いた。

テロに使われた飛行機の1機がボストンから出たということもあり、ボストンはぴりぴりしていた。数週間はほとんど外に出ず、始終頭上でヘリコプターや軍用機の飛ぶ音が聞こえていた。学校も緊急体制を整え、テロに備えた。緊張の休まることのなかった1ヶ月。

親友のデーナがハーバード大学近くで自転車事故に遭い、即死したという電話が入ったのはアスファルトが足の下でぐにゃりとなるほど暑かった7月2日。遠距離に住んでいる彼女の夫からの電話だった。

テキサスに住んでいるデーナの母親が取り乱しているので、まず彼女の実家に寄ってからボストンに行くのでかわりに警察とやりとりをしてほしいということだった。結局その夜から3日間ぶっとうしで、警察とのやり取り、遺体確認の手続き、葬儀を行う教会への連絡、彼女の知人友人への連絡など、主のいなくなった彼女のアパートに泊まり込んでした。

大学院の博士課程で勉強していた才女。30以上のフルマラソンを完走したスポーツウーマン。単独でアラスカの大地をカヤックで旅した冒険好きのロマンチシスト。自分が女性であることを誇りに思っていたフェミニスト。そして何があっても必ず味方になってくれた親友。その親友を亡くして5日間はショックで何もできなかった。仕事にも行けなかった。子供のことも考えることが出来なかった。夫は東南アジアへ長期研究に出ていて、連絡さえ取れない。そんなとき、ウナは「子供たちは私が見ててあげるから、帰って来たい時に帰ってきていいよ。」と言ってくれた。ラッキーなことに、その時たまたま「ウナママ」(ウナのおかあさん)が遊びに来ていて、二人で子供たちを見てくれた。

数日ぶりに家に帰って来ると、子供たちが笑顔いっぱいで出迎えてくれた。子供たちの顔を見たら、また涙が出てきた。デーナは子供たちのことをとてもかわいがってくれていたからだ。あれから7年たった。

「イルゼ」
その次のイルゼは北欧のラトピアから来てくれた。にんじんが大好きで、毎日2−3本ばりぼりとアメリカ漫画のバックスバニーのように食べていた。子供たちもそのまねをして、毎日1本ずつばりぼりと生のにんじんを食べるようになった。

寒い国の出身だけあって、冬が大好き、雪が大好き。そして、自然が大好き。どんなに寒かろうと、毎日子供たちを乳母車に乗せて外へ連れて行ってくれた。零下15度くらいになってまさか今日は外には出てないだろうと思っていた日も、帰ってみると「ほっぺたにワセリンたっぷり塗って、しっかり厚着して、除雪された車道を通って散歩に行った。」と言うのでぶったまげた。(あとから調べてわかったことであるが、ワセリンを塗っても凍傷は防げない。)あとで写真を見せてもらうと、たしかに子供たちは大変な厚着をさせられているためころころで、腕が上がったまま、かかしのようにして立っている。子供たちは雪を食べることを学び、新雪の上にスノーエンジェルを作ることを学んだ。

一つだけ困ったのは彼女の料理のレパートリーが非常に狭いことであった。お肉、ジャガイモ、タマネギとにんじんを使ったシチューしか作れなかったのだ。多分、家ではそれくらいのものしか食べていなかったのだと思う。電子レンジや全自動洗濯機は、うちに来て初めて使い方を学んだくらいだから。

「コイ」
イルゼの次は、やっぱりお米を主食とする国の女の子にしようと、タイから日本語の勉強もしたことのあるコイに来てもらった。

とても華奢なコイに2人乗りの乳母車は押せなかった上、運転が嫌いだったので、子供たちはどこへ行くにも歩いて連れて行かれた。コイは大のアート好き。毎日子供たちといっしょに絵を書いたり、クラフトをしたりしてくれた。妙ちゃんの芸術的才能はこの時に開花し始めた。毎日画用紙5枚から10枚にすばらしい絵を描くのである。この頃に描いた絵2枚は今でも額に入れて、テレビルームに飾ってある。この時の「作品群」の量はすごいもので、いいものだけを取ってあるのだが、ポートフォリオ3冊とプラスチックのケースひとついっぱいに入っている。いつの日か仕事から引退した時に引っ張りだして整理しようと思っている。

コイには、ひとつかわいそうなボストン逸話がある。

ある夜、魔女狩りで有名なセーラムから帰ってきたコイが「ちょっと聞きたいんですけど。」と少ししょんぼりして言ってきた。話を聞くと、見も知らぬアメリカ人が彼女のかぶっていた野球帽を指差して「よく、そんなものかぶっていられるね。」と言ったというのである。それが、初めてではなく、過去にもボストン市内で2回ほどその野球帽を指差して何か言われたという。その野球帽とやらを見せてもらうと、何とNYヤンキースの野球帽だったのだ。ボストン・レッド・ソックスとニューヨーク・ヤンキースは阪神巨人と同様宿敵、ライバル。「そりゅあ、だめだわ!」と私も思わず笑ってしまった。

オーペアは全員アメリカに到着してまず1週間の研修が義務付けられている。コイはニューヨークでこの研修を受けてきた。その時に買った野球帽が、ヤンキースのロゴ付だったのだ。彼女はニューヨークのお土産のつもりで買ったものが、実は野球チームのロゴだとは思いもしなかったのである。遠いバンコックから来た女の子が、アメリカの野球のことなど知っているはずがない。

真相を知った彼女はほっとして、野球帽はバンコックに帰るまでしまっておくことにした。

「ミーコ」
その次の女の子もタイから来たミーコである。タイのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業したミーコは、勉強好きの家庭教師タイプ。ミーコは子供たちにタイ語を教え、夫のためにタイ語の資料を英語に翻訳してくれた。今でも、私の姑のシルク・ビジネスをサポートしてくれている。

タイの女の子たちは信心深く、家族との繋がりも深い。料理や家事もすでに母親にかわってしている子が多かったから、料理も上手だった。週末はタイ人の集まるお寺へ行き、その他は私たち家族と過ごす時間が多かった。たまにタイ人のオーペアたちがうちに集まって、キッチンの床に座り込んでぺちゃくちゃとおしゃべりしながらタイ料理を作ってくれた。わたしもグリーン・パパイヤ・サラダの作り方を教えてもらった。

コイとミーコがいっしょに住んでくれていた時にはいつも家の中がタイ米のいい香りがしていた。仕事から帰った時にお米が炊けているというのはとってもうれしいものだ。彼女たちが帰った後も我が家では、必ず日本米とタイ米を置いておかずによって使い分けている。私が作るカレーは日本のルーにココナツミルクを入れ、タイ米を使う。

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振り返ってみると、我が家はとてもラッキーだった。

オーペアはみんなとてもいい女の子たちだったし、みんなそれぞれ違う、素晴らしいものを子供たちにプレゼントしてくれた。母親の私がつきっきりで子供たちの面倒を一切見ていても、あの女の子たちの5人分の才能と献身とエネルギーにはかなわなかったと思う。現在もまだ5人とは連絡を取り合っている。2年前にはタイに行って、コイとミーコに会ってきた。コーコはもうお母さんになっている。ウナは結婚し、イルゼも婚約した。みんなきっとすばらしい女性、お母さんになると思う。

子供たちも小学生になり、学校の延長プログラムに参加するようになってから、オーペアは必要ではなくなった。去年は近くの保育園で働くジャスミンおねえさんがいっしょに住んでくれて、私と夫だけではカバーできない部分を手伝ってくれた。日米ハーフ(ダブル?)のジャスミンは日本語もできるので、子供たちの英語の宿題も日本語の勉強もみてくれた。同じく2つの国のもとで生まれ、2つの文化を上手に融和させているジャスミンから、日本の文化もアメリカの文化もどちらも素晴らしいのだということを学んでくれたと思っている。そのジャスミンもこの秋から大学院で教員になる勉強をするため、家から出て行く。

いよいよ、我が家も自分たちだけでサバイブできるか??

いやいや、情けないことに実際には自分たちだけでのサバイブは不可能なんです。近くで、また遠くで私たちのことを助けてくれて、サポートしてくれる人たちのお陰で、アビューザ家はサバイブしています。皆様、どうもありがとうございます。

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