うちはオーペアなしではサバイブできなかった。子供たちが生まれて小学校1年生になるまでは、オーペアのおかげでアビューザ家はなんとかサバイブしたのだ。
オーペアとは?アメリカの家庭で家族の一員として住み、子供たちの世話をしながら英語を学び、アメリカ文化に触れるために、1年から2年間渡米する外国人の若者だ。政府が承認しているいくつかのエージェンシーを通して、世界中からやってくる住み込みベビーシッター・お姉さんたち(ほとんどが女子)。うちの子供たちはこの女の子たちのおかげで元気に育ち、私たち親は安心して仕事を続けられた。
アメリカの保育園はかなりお金がかかる。1歳以下の乳児の場合、9年前でも最低1ヶ月$900した。うちは双子だからその2倍。2人目からは割引が利くところもあるが、そういうところはもともとの値段が$1200と割高である。それに、これは9時から5時までのお値段だから、延長保育をしてもらうともっとかかるのである。だから、アメリカの共働きの家庭で2人以上子供がいたら、オーペアに来てもらった方が割安になる。
当時、オーペア・エージェンシーにはプログラム費(航行料、保険、手数料など)約$6,000を払い、オーペアには週$135ほどをお小遣いとして渡すシステムになっていた。オーペアは週に35時間まで子供の世話をするのが仕事で、その他は英語の授業をとったり、家族とすごしたり、家事を手伝ったり、友達と遊びに行ったりする。いっしょに住んでいるので、子供が病気をしても親は安心して仕事に出かけることができる。
オーペアの選考基準はきちんと定められており、あらゆる書類の他、個人面接の記録なども渡され、それを見て候補を決める。ホストファミリーとなる私たちも書類を整え、保証人を見つけ、係の人が家庭訪問にやってきた。候補者と電話やEメールなどでやりとりをした後、お互いに「これはいける!」と思ったら契約が結ばれる。まるでお見合いだ。そうして、私たちは5人のオーペアのお世話になった。
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「コーコ」
一人目のオーペアは日本人のれいこさん。なぜか子供たちには「コーコ」と呼ばれていた。生後3ヶ月目に私も職場復帰したので、二人の乳児の世話は大学を卒業して間もないコーコがしてくれたのである。
若いのにとてもしっかりした女の子で、子育て、家事を完璧にこなしてくれた。離乳食もすべて手作り。私がつい甘えて残業続きになると、「赤ちゃんでもお母さんとのスキンシップが必要なんですから、たまには早く帰ってきてあげて下さいね!」としかられたりもした。コーコに言われると私も「はい。すみません。」と言わざるをえない。
家に帰ってくると「今日は妙ちゃんが10秒くらいおすわりしましたよ〜」と報告してくれる。妙ちゃんの最初の一歩を目撃したのもコーコだ。そして、チャーリーの手を取って歩く練習をさせてくれたのもコーコだ。私の愚痴を聞いてくれたのもコーコだ。
「ウナ」
次に来てくれたのはコーコの妹のゆうこさん。なぜか子供たちには「ウナ」と呼ばれていた。ウナは子供たちに幼児手話を教えてくれた。そういうものがあるということさえ知らなかった私。「ちょうだい」とか、「お風呂」とか「ミルク」を手話で伝えれるようになった子供たちを見てびっくり。
ウナが我が家にいた年に大事件が2つ起きた。一つは911テロ、そしてもう一つは親友デーナの事故死だった。
ニューヨークに住んでいた頃、父のオフィスは双子ビルの中にあった。父と二人暮らしだったので、よく学校帰りに父のオフィスに寄り、いっしょに家に帰ったものだ。日本からお客様が来ると必ず双子ビルの展望台に上り、レストランで食事をした。1階にあった本屋さんはアート関係の本をよくセールに出していたので、いつも立ち寄っていた。耳がぼわーんとなる高速エレベーター。オフィスの天井から吊るしたユーラユーラと揺れる振り子。(父の同僚が「こんなに高いビルは揺れるように作ってあるんだよ。そうでないと、地震の時にボキって折れてしまうんだよ。」と安心させようとしてくれた。)巨大な地下駐車場。すべてが目の前のテレビの画面の中で燃え、崩れ落ちて行く。同僚といっしょに教室のテレビの画面を呆然と見ていると、テレビの画面に急に一角から煙の出ているペンタゴンがうつる。女子教職員はみんな泣き出し、男の人たちの中にも必死に涙をこらえている人が数人いた。
テロに使われた飛行機の1機がボストンから出たということもあり、ボストンはぴりぴりしていた。数週間はほとんど外に出ず、始終頭上でヘリコプターや軍用機の飛ぶ音が聞こえていた。学校も緊急体制を整え、テロに備えた。緊張の休まることのなかった1ヶ月。
親友のデーナがハーバード大学近くで自転車事故に遭い、即死したという電話が入ったのはアスファルトが足の下でぐにゃりとなるほど暑かった7月2日。遠距離に住んでいる彼女の夫からの電話だった。
テキサスに住んでいるデーナの母親が取り乱しているので、まず彼女の実家に寄ってからボストンに行くのでかわりに警察とやりとりをしてほしいということだった。結局その夜から3日間ぶっとうしで、警察とのやり取り、遺体確認の手続き、葬儀を行う教会への連絡、彼女の知人友人への連絡など、主のいなくなった彼女のアパートに泊まり込んでした。
大学院の博士課程で勉強していた才女。30以上のフルマラソンを完走したスポーツウーマン。単独でアラスカの大地をカヤックで旅した冒険好きのロマンチシスト。自分が女性であることを誇りに思っていたフェミニスト。そして何があっても必ず味方になってくれた親友。その親友を亡くして5日間はショックで何もできなかった。仕事にも行けなかった。子供のことも考えることが出来なかった。夫は東南アジアへ長期研究に出ていて、連絡さえ取れない。そんなとき、ウナは「子供たちは私が見ててあげるから、帰って来たい時に帰ってきていいよ。」と言ってくれた。ラッキーなことに、その時たまたま「ウナママ」(ウナのおかあさん)が遊びに来ていて、二人で子供たちを見てくれた。
数日ぶりに家に帰って来ると、子供たちが笑顔いっぱいで出迎えてくれた。子供たちの顔を見たら、また涙が出てきた。デーナは子供たちのことをとてもかわいがってくれていたからだ。あれから7年たった。
「イルゼ」
その次のイルゼは北欧のラトピアから来てくれた。にんじんが大好きで、毎日2−3本ばりぼりとアメリカ漫画のバックスバニーのように食べていた。子供たちもそのまねをして、毎日1本ずつばりぼりと生のにんじんを食べるようになった。
寒い国の出身だけあって、冬が大好き、雪が大好き。そして、自然が大好き。どんなに寒かろうと、毎日子供たちを乳母車に乗せて外へ連れて行ってくれた。零下15度くらいになってまさか今日は外には出てないだろうと思っていた日も、帰ってみると「ほっぺたにワセリンたっぷり塗って、しっかり厚着して、除雪された車道を通って散歩に行った。」と言うのでぶったまげた。(あとから調べてわかったことであるが、ワセリンを塗っても凍傷は防げない。)あとで写真を見せてもらうと、たしかに子供たちは大変な厚着をさせられているためころころで、腕が上がったまま、かかしのようにして立っている。子供たちは雪を食べることを学び、新雪の上にスノーエンジェルを作ることを学んだ。
一つだけ困ったのは彼女の料理のレパートリーが非常に狭いことであった。お肉、ジャガイモ、タマネギとにんじんを使ったシチューしか作れなかったのだ。多分、家ではそれくらいのものしか食べていなかったのだと思う。電子レンジや全自動洗濯機は、うちに来て初めて使い方を学んだくらいだから。
「コイ」
イルゼの次は、やっぱりお米を主食とする国の女の子にしようと、タイから日本語の勉強もしたことのあるコイに来てもらった。
とても華奢なコイに2人乗りの乳母車は押せなかった上、運転が嫌いだったので、子供たちはどこへ行くにも歩いて連れて行かれた。コイは大のアート好き。毎日子供たちといっしょに絵を書いたり、クラフトをしたりしてくれた。妙ちゃんの芸術的才能はこの時に開花し始めた。毎日画用紙5枚から10枚にすばらしい絵を描くのである。この頃に描いた絵2枚は今でも額に入れて、テレビルームに飾ってある。この時の「作品群」の量はすごいもので、いいものだけを取ってあるのだが、ポートフォリオ3冊とプラスチックのケースひとついっぱいに入っている。いつの日か仕事から引退した時に引っ張りだして整理しようと思っている。
コイには、ひとつかわいそうなボストン逸話がある。
ある夜、魔女狩りで有名なセーラムから帰ってきたコイが「ちょっと聞きたいんですけど。」と少ししょんぼりして言ってきた。話を聞くと、見も知らぬアメリカ人が彼女のかぶっていた野球帽を指差して「よく、そんなものかぶっていられるね。」と言ったというのである。それが、初めてではなく、過去にもボストン市内で2回ほどその野球帽を指差して何か言われたという。その野球帽とやらを見せてもらうと、何とNYヤンキースの野球帽だったのだ。ボストン・レッド・ソックスとニューヨーク・ヤンキースは阪神巨人と同様宿敵、ライバル。「そりゅあ、だめだわ!」と私も思わず笑ってしまった。
オーペアは全員アメリカに到着してまず1週間の研修が義務付けられている。コイはニューヨークでこの研修を受けてきた。その時に買った野球帽が、ヤンキースのロゴ付だったのだ。彼女はニューヨークのお土産のつもりで買ったものが、実は野球チームのロゴだとは思いもしなかったのである。遠いバンコックから来た女の子が、アメリカの野球のことなど知っているはずがない。
真相を知った彼女はほっとして、野球帽はバンコックに帰るまでしまっておくことにした。
「ミーコ」
その次の女の子もタイから来たミーコである。タイのトップクラスの大学を優秀な成績で卒業したミーコは、勉強好きの家庭教師タイプ。ミーコは子供たちにタイ語を教え、夫のためにタイ語の資料を英語に翻訳してくれた。今でも、私の姑のシルク・ビジネスをサポートしてくれている。
タイの女の子たちは信心深く、家族との繋がりも深い。料理や家事もすでに母親にかわってしている子が多かったから、料理も上手だった。週末はタイ人の集まるお寺へ行き、その他は私たち家族と過ごす時間が多かった。たまにタイ人のオーペアたちがうちに集まって、キッチンの床に座り込んでぺちゃくちゃとおしゃべりしながらタイ料理を作ってくれた。わたしもグリーン・パパイヤ・サラダの作り方を教えてもらった。
コイとミーコがいっしょに住んでくれていた時にはいつも家の中がタイ米のいい香りがしていた。仕事から帰った時にお米が炊けているというのはとってもうれしいものだ。彼女たちが帰った後も我が家では、必ず日本米とタイ米を置いておかずによって使い分けている。私が作るカレーは日本のルーにココナツミルクを入れ、タイ米を使う。
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振り返ってみると、我が家はとてもラッキーだった。
オーペアはみんなとてもいい女の子たちだったし、みんなそれぞれ違う、素晴らしいものを子供たちにプレゼントしてくれた。母親の私がつきっきりで子供たちの面倒を一切見ていても、あの女の子たちの5人分の才能と献身とエネルギーにはかなわなかったと思う。現在もまだ5人とは連絡を取り合っている。2年前にはタイに行って、コイとミーコに会ってきた。コーコはもうお母さんになっている。ウナは結婚し、イルゼも婚約した。みんなきっとすばらしい女性、お母さんになると思う。
子供たちも小学生になり、学校の延長プログラムに参加するようになってから、オーペアは必要ではなくなった。去年は近くの保育園で働くジャスミンおねえさんがいっしょに住んでくれて、私と夫だけではカバーできない部分を手伝ってくれた。日米ハーフ(ダブル?)のジャスミンは日本語もできるので、子供たちの英語の宿題も日本語の勉強もみてくれた。同じく2つの国のもとで生まれ、2つの文化を上手に融和させているジャスミンから、日本の文化もアメリカの文化もどちらも素晴らしいのだということを学んでくれたと思っている。そのジャスミンもこの秋から大学院で教員になる勉強をするため、家から出て行く。
いよいよ、我が家も自分たちだけでサバイブできるか??
いやいや、情けないことに実際には自分たちだけでのサバイブは不可能なんです。近くで、また遠くで私たちのことを助けてくれて、サポートしてくれる人たちのお陰で、アビューザ家はサバイブしています。皆様、どうもありがとうございます。
2009年7月20日月曜日
2009年7月17日金曜日
コミュニティー・サステインド・アグリカルチャー
「地域支援農業」とでも訳せばいいのでしょうか。普通 Community Sustained Agriculture - CSA と呼ばれ、こちらではかなり定着してきている。簡単に説明すると、農家と消費者が年間契約を結ぶのだ。これは地元の農業を守ると同時に、消費者としては質の高い新鮮な食べ物を購入することができる。ほとんどの CSA は無農薬農家である。
イプスイッチの町にはアメリカで最古の連続経営農場アップルトン・ファームがある。アップルトン氏はイプスイッチを植民地化した最初のグループの一人としてこの土地にやってきた。その農場は近年、地元の非営利団体に寄付され、新たに地域支援型無農薬農場として経営されることになった。
年会費(シェア)$600で6月上旬から10月下旬まで、毎週1回農作物をブラウンバッグいっぱいもらえる。だいたい野菜をたくさん食べる5人家族が1週間食べれるくらいの量である。無農薬、ホルモン剤不使用の飼料で育てられている牛もおり、牛肉も別に買うことが出来る。時々、ガーリック・フェスティバルとか収穫祭などのイベントもあり、会員同士の交流も楽しい。
実は、うちはここの会員になるために3年間もウエイティング・リストにのせてもらって待っていた。去年とうとう夫が我慢しきれずに「アップルトン・ファームなんてくそくらえだ!いつまで待てばいいんだよ!じぶんで畑つくってやらあ〜!」(子供には聞かせれないような英語で息まくった)と言って裏庭の芝生を掘り下げ、5m x10mくらいの大きさの畑を作ってしまった。そこにはトマト、豆、レタス、ズッキーニー、ガーリック、なすび、キャベツなどの他に葉っぱをみただけでは何なのかわからないものがいっぱい並んでいる。畑は夫の管轄下なので、私にはよくわからないのである。
我が家では毎年5月の母の日の週末が「畑開き」と決まっている。毎年4mx5mくらいの小さい畑にトマトや豆などをこじんまりと植えていたのだが、去年からは夫と子供たちで丸2日費やして畑の準備をして種をまいたり、苗を植えたりした。5月と6月は畑の世話がかなりハードだが、ある程度作物も大きくなるとあとは楽だ。
そんなとき、アップルトン・ファームから「あなたの番が回ってきました。来週から収穫がはじまりますので、記入した申し込み用紙と入金をお願いします。」との連絡が入ってきた。
うちの畑だけでもかなりの収穫があるので迷ったのだが、ここで辞退すると今度加入したい時にまた数年待たされる。子供たちもこれからどんどん食欲が増してくることを考えると、加入しておいた方がいいだろう。それにうちは秋野菜は作らないので、それもほしい。ということで、同じ町に住む牧ちゃんち(ベビーを入れて3人家族)と雅代ちゃんち(彼と二人暮らし)とでシェアを分けることにした。我が家が50%、牧ちゃんと雅代ちゃんはそれぞれ25%分のお野菜をもらう。
今の時期はレタスや人参、水菜、白菜、ボックチョイ、スイスチャード、他さまざまな根菜、葉っぱのお野菜が並んでいる。スーパーでは買えないもの、見たこともないようなめずらしいお野菜もたくさん並んでいる。その日の朝採れたばかりのぴちぴちの野菜だ。その中から自分のほしいものを袋に詰めて行く。
自分のシェアを取りに行くたびに、自分で収穫できるものもある。たとえば、先週はいちご取り放題、今週はまめを1クオートと花10本。畑に出て行き、収穫する。たかが2、30分のことなのだが、暑いし、腰は痛いしで結構大変だ。お百姓さんは本当に大変なんだなあと身をもって感じる。こどもを連れてくる人も多く、たいていの子供たちは自分でむしった生野菜をばりぼり食べながら親のあとにくっついて歩いている。
自分で育てた野菜を食べるのはうれしいものだが、それを家族や友達に分けてあげたり、ごちそうしたりするのはより楽しい。
でも、一番楽しいのは雪の降り積もる真冬の1月くらいに、夏の終わりに瓶詰めにしたトマトソースやジャムを開たり、ペスト(バジルで作った「夏の香り」のするペースト状のもの)を解凍したりして、つかの間だけ夏を懐かしむ料理を頂く時だ。我が家は燃料費を節約するために、ダイニング・ルームでは薪ストーブを使っている。その上のヤカンがしゅんしゅんなっている中で、夏の香りの食事をすると、「この寒さもあと3ヶ月の辛抱」と自分に言い聞かせて長い冬を乗り切るのである。
イプスイッチの町にはアメリカで最古の連続経営農場アップルトン・ファームがある。アップルトン氏はイプスイッチを植民地化した最初のグループの一人としてこの土地にやってきた。その農場は近年、地元の非営利団体に寄付され、新たに地域支援型無農薬農場として経営されることになった。
年会費(シェア)$600で6月上旬から10月下旬まで、毎週1回農作物をブラウンバッグいっぱいもらえる。だいたい野菜をたくさん食べる5人家族が1週間食べれるくらいの量である。無農薬、ホルモン剤不使用の飼料で育てられている牛もおり、牛肉も別に買うことが出来る。時々、ガーリック・フェスティバルとか収穫祭などのイベントもあり、会員同士の交流も楽しい。
実は、うちはここの会員になるために3年間もウエイティング・リストにのせてもらって待っていた。去年とうとう夫が我慢しきれずに「アップルトン・ファームなんてくそくらえだ!いつまで待てばいいんだよ!じぶんで畑つくってやらあ〜!」(子供には聞かせれないような英語で息まくった)と言って裏庭の芝生を掘り下げ、5m x10mくらいの大きさの畑を作ってしまった。そこにはトマト、豆、レタス、ズッキーニー、ガーリック、なすび、キャベツなどの他に葉っぱをみただけでは何なのかわからないものがいっぱい並んでいる。畑は夫の管轄下なので、私にはよくわからないのである。
我が家では毎年5月の母の日の週末が「畑開き」と決まっている。毎年4mx5mくらいの小さい畑にトマトや豆などをこじんまりと植えていたのだが、去年からは夫と子供たちで丸2日費やして畑の準備をして種をまいたり、苗を植えたりした。5月と6月は畑の世話がかなりハードだが、ある程度作物も大きくなるとあとは楽だ。
そんなとき、アップルトン・ファームから「あなたの番が回ってきました。来週から収穫がはじまりますので、記入した申し込み用紙と入金をお願いします。」との連絡が入ってきた。
うちの畑だけでもかなりの収穫があるので迷ったのだが、ここで辞退すると今度加入したい時にまた数年待たされる。子供たちもこれからどんどん食欲が増してくることを考えると、加入しておいた方がいいだろう。それにうちは秋野菜は作らないので、それもほしい。ということで、同じ町に住む牧ちゃんち(ベビーを入れて3人家族)と雅代ちゃんち(彼と二人暮らし)とでシェアを分けることにした。我が家が50%、牧ちゃんと雅代ちゃんはそれぞれ25%分のお野菜をもらう。
今の時期はレタスや人参、水菜、白菜、ボックチョイ、スイスチャード、他さまざまな根菜、葉っぱのお野菜が並んでいる。スーパーでは買えないもの、見たこともないようなめずらしいお野菜もたくさん並んでいる。その日の朝採れたばかりのぴちぴちの野菜だ。その中から自分のほしいものを袋に詰めて行く。
自分のシェアを取りに行くたびに、自分で収穫できるものもある。たとえば、先週はいちご取り放題、今週はまめを1クオートと花10本。畑に出て行き、収穫する。たかが2、30分のことなのだが、暑いし、腰は痛いしで結構大変だ。お百姓さんは本当に大変なんだなあと身をもって感じる。こどもを連れてくる人も多く、たいていの子供たちは自分でむしった生野菜をばりぼり食べながら親のあとにくっついて歩いている。
自分で育てた野菜を食べるのはうれしいものだが、それを家族や友達に分けてあげたり、ごちそうしたりするのはより楽しい。
でも、一番楽しいのは雪の降り積もる真冬の1月くらいに、夏の終わりに瓶詰めにしたトマトソースやジャムを開たり、ペスト(バジルで作った「夏の香り」のするペースト状のもの)を解凍したりして、つかの間だけ夏を懐かしむ料理を頂く時だ。我が家は燃料費を節約するために、ダイニング・ルームでは薪ストーブを使っている。その上のヤカンがしゅんしゅんなっている中で、夏の香りの食事をすると、「この寒さもあと3ヶ月の辛抱」と自分に言い聞かせて長い冬を乗り切るのである。
2009年7月12日日曜日
毎日のサバイバル
もうすぐ新学年が始まる。うちの妙ちゃんとチャーリーはいよいよ小学4年生、もう高学年だ。「あの超未熟児だった子たちが」と思わず涙ぐんだりはしないが、やはり「いつの間にこんなに大きくなったんや〜!」という戸惑いはある。
多分アメリカではどこでも同じだと思うのだが、イプスイッチの町では小学生の間は子供は大人が付き添わなくては何も出来ない。日本みたいに児童だけで登下校など想像もつかないのだ。学校の行き帰りはもちろん親が送り迎えをするか、行きはスクールバスに乗せて帰りはバス停で迎えてあげなくてはならない。帰りのスクールバスのお迎えに遅れようものなら、子供はバスからおろされずにそのまま、また学校に連れ帰られてしまう。うちは共働きなので子供の登下校時には家にはいない。そこで学校のExtended Day Program 延長プログラムに入れている。二人あわせて毎月$600ほどかかるのだが仕方がない。朝は7時から夕方は6時まで預かってくれる。希望者には朝ご飯も食べさせてくれるし、午後には宿題を手伝ってくれたり遊んでくれたりする高校生のおにいさんやお姉さんたちもいる。
朝は子供たちをたたき起こして7時ちょうどに学校に連れて行く。これで何とか私は8時15分までには職場に到着できる。問題は帰りのピックアップである。夫と私のどちらか早く家に帰れる方が迎えに行くのだが、これが結構きついのだ。6時を過ぎると、1分につき$5の罰金が科せられる。必死で車を走らせて5時58分や5時59分にたどり着いたことも何回かある。そんな時にはきれいに片付いた、だだっ広い食堂で二人がぽつんと担当のミセス・グービーといっしょにうらめしそうな目をして待っている。実はどうしても間に合わなくて、事前に学校に名前を登録してある「信用出来るピックアップ可能人間」の友人にお迎えを頼んだことも数回ある。お迎えに間に合うか間に合わないかのハラハラドキドキですでに寿命は数年縮んでいるのは確実だ。子供たちが知らない間に大きくなって行くのは少しさびしいけれども、早く中学生になってくれたら自分たちだけで登下校できるので楽しみ!
家に帰ったら帰ったで、晩ご飯の用意がある。これは全世界の働く親の悩みの種であろう。とにかくおなかをすかせた子供たちに15分以内で用意出来るものが必要である。昔はちゃんと毎日栄養のバランスを考えて毎食タンパク質、お野菜、炭水化物などと気を使っていたが、それがかなり私のストレスになっていた。ある日、医者である友人にそのことを愚痴ると、「食事なんて週単位で考えればいいのよ。1週間でバランスが取れてればいい。気になるんだったら子供には毎日子供ビタミン剤を飲ませておけば最低限の栄養素はカバーできるから。」(これって、すごくアメリカ的?)と言われ、なるほどと少し気が楽になった。
ところが、最近の私はより大胆になり、年単位で考えるようになってしまった。夏には夫が魚釣りをするということもあり魚をよく食べる。また、家の小さい畑で野菜がたくさん出来るし、近くの有機農場の会員にもなっているので野菜をがんがん食べる。ところが、冬になると野菜と言えばブロッコリーとかグリーンビーンズ、冷凍野菜になってしまう。魚も週1回配達してくれる日だけであとはお肉が多くなる。昔なら気になって悩んでいたと思うのだが、もう今は「ま、夏になれば今の野菜不足は補えるから。」などと暢気に構えている。(これはまったく科学的な根拠に基づいていませんので、まねをすることはやめましょう。)
我が家では週末は一応ちゃんとしたものを作って食べているので、たいてい月曜日は残り物でなんとかなる。火曜日まで何とかなる時もあるのだが、たいていはスパゲッティーをゆでてカン詰めのパスタソースを暖めて食べる。水曜日は残り野菜とお肉の炒め物、木曜日は配達される魚をオーブン焼き、金曜日は鶏の唐揚げという感じでなんとか週末にこぎつける。
私と子供たちはカレーが好きなのだが、夫はきらいなので夫がいないときにカレーを作る。カレーなどシチュー類は前の晩疲れてなければ、スロークッカーに材料を切って入れておき、次の日の朝にスイッチを押すと、4時間後、6時間後、8時間後と時間設定した時に出来上がっているので、便利である。この時もどんと作っておいて2日続けてカレーを食べる。いや実を言うと、3日続けて食べる時もある。そんな時にはさすがにカレー大好きのチャーリーも「また今晩もカレーなの。3日も続けてカレーなんていやだよ。」「カレーは体に一番いい料理なんだよ!お肉も入っているし、お野菜もはいっているし。世界中で餓死している子供がたくさんいるんだから食べ物で文句いわない!」とむりやり食べさせる。以前ドラマで「今日のシチューは明日のカレー。明日のカレーはあさってのカレーコロッケ。」とお母さん役の人が自分の娘に言っていたけれども、そこまで頭と体がまわらないんですよね。でも、最近は少し賢くなって、1日目にはシチューとして食べて、2日目と3日目にカレーとして食べるようにしています。へへ、、、
多分アメリカではどこでも同じだと思うのだが、イプスイッチの町では小学生の間は子供は大人が付き添わなくては何も出来ない。日本みたいに児童だけで登下校など想像もつかないのだ。学校の行き帰りはもちろん親が送り迎えをするか、行きはスクールバスに乗せて帰りはバス停で迎えてあげなくてはならない。帰りのスクールバスのお迎えに遅れようものなら、子供はバスからおろされずにそのまま、また学校に連れ帰られてしまう。うちは共働きなので子供の登下校時には家にはいない。そこで学校のExtended Day Program 延長プログラムに入れている。二人あわせて毎月$600ほどかかるのだが仕方がない。朝は7時から夕方は6時まで預かってくれる。希望者には朝ご飯も食べさせてくれるし、午後には宿題を手伝ってくれたり遊んでくれたりする高校生のおにいさんやお姉さんたちもいる。
朝は子供たちをたたき起こして7時ちょうどに学校に連れて行く。これで何とか私は8時15分までには職場に到着できる。問題は帰りのピックアップである。夫と私のどちらか早く家に帰れる方が迎えに行くのだが、これが結構きついのだ。6時を過ぎると、1分につき$5の罰金が科せられる。必死で車を走らせて5時58分や5時59分にたどり着いたことも何回かある。そんな時にはきれいに片付いた、だだっ広い食堂で二人がぽつんと担当のミセス・グービーといっしょにうらめしそうな目をして待っている。実はどうしても間に合わなくて、事前に学校に名前を登録してある「信用出来るピックアップ可能人間」の友人にお迎えを頼んだことも数回ある。お迎えに間に合うか間に合わないかのハラハラドキドキですでに寿命は数年縮んでいるのは確実だ。子供たちが知らない間に大きくなって行くのは少しさびしいけれども、早く中学生になってくれたら自分たちだけで登下校できるので楽しみ!
家に帰ったら帰ったで、晩ご飯の用意がある。これは全世界の働く親の悩みの種であろう。とにかくおなかをすかせた子供たちに15分以内で用意出来るものが必要である。昔はちゃんと毎日栄養のバランスを考えて毎食タンパク質、お野菜、炭水化物などと気を使っていたが、それがかなり私のストレスになっていた。ある日、医者である友人にそのことを愚痴ると、「食事なんて週単位で考えればいいのよ。1週間でバランスが取れてればいい。気になるんだったら子供には毎日子供ビタミン剤を飲ませておけば最低限の栄養素はカバーできるから。」(これって、すごくアメリカ的?)と言われ、なるほどと少し気が楽になった。
ところが、最近の私はより大胆になり、年単位で考えるようになってしまった。夏には夫が魚釣りをするということもあり魚をよく食べる。また、家の小さい畑で野菜がたくさん出来るし、近くの有機農場の会員にもなっているので野菜をがんがん食べる。ところが、冬になると野菜と言えばブロッコリーとかグリーンビーンズ、冷凍野菜になってしまう。魚も週1回配達してくれる日だけであとはお肉が多くなる。昔なら気になって悩んでいたと思うのだが、もう今は「ま、夏になれば今の野菜不足は補えるから。」などと暢気に構えている。(これはまったく科学的な根拠に基づいていませんので、まねをすることはやめましょう。)
我が家では週末は一応ちゃんとしたものを作って食べているので、たいてい月曜日は残り物でなんとかなる。火曜日まで何とかなる時もあるのだが、たいていはスパゲッティーをゆでてカン詰めのパスタソースを暖めて食べる。水曜日は残り野菜とお肉の炒め物、木曜日は配達される魚をオーブン焼き、金曜日は鶏の唐揚げという感じでなんとか週末にこぎつける。
私と子供たちはカレーが好きなのだが、夫はきらいなので夫がいないときにカレーを作る。カレーなどシチュー類は前の晩疲れてなければ、スロークッカーに材料を切って入れておき、次の日の朝にスイッチを押すと、4時間後、6時間後、8時間後と時間設定した時に出来上がっているので、便利である。この時もどんと作っておいて2日続けてカレーを食べる。いや実を言うと、3日続けて食べる時もある。そんな時にはさすがにカレー大好きのチャーリーも「また今晩もカレーなの。3日も続けてカレーなんていやだよ。」「カレーは体に一番いい料理なんだよ!お肉も入っているし、お野菜もはいっているし。世界中で餓死している子供がたくさんいるんだから食べ物で文句いわない!」とむりやり食べさせる。以前ドラマで「今日のシチューは明日のカレー。明日のカレーはあさってのカレーコロッケ。」とお母さん役の人が自分の娘に言っていたけれども、そこまで頭と体がまわらないんですよね。でも、最近は少し賢くなって、1日目にはシチューとして食べて、2日目と3日目にカレーとして食べるようにしています。へへ、、、
2009年6月25日木曜日
マサチューセッツ・シニア・ゲーム

アメリカでは毎年この時期になるとそれぞれの州で、シニア向けの夏の国体みたいなシニア・ゲームが開催される。50歳以上の市民が水泳、テニス、サッカー、ビリヤード(これってスポーツ?)、ボーリング、サッカー、バスケットボール、バレーボール、陸上競技、射撃、そしてアーチェリーなどのスポーツで競う。それぞれのスポーツの州の代表が2年ごとに開催される全国大会に出場する権利を獲得するのである。
さて、今年の2月に晴れて50歳になった私ブログ著者。実は大学のころに少しかじったアーチェリーを1年ほど前から再び始め、すっかりのめりこんでいる。もともとは子供たちのお稽古事のつもりが、親の方が夢中になって子供には呆れられ、「ついていけないよ。」とほったらかしにされている。
せっかく半世紀サバイブして正式にシニアの仲間入りをしたのだから、この試合を逃す手はないといそいそと出かけた。だが、この試合は普通の試合とはずいぶん違っていたのである。
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豪雨の中2時間半車で走り、マサチューセッツ州のおへそとも言える町スプリングフィールドにたどり着いたのは朝8時半。アーチェリーの試合は雷がならない限りは豪雨でも実施するので少し気が重かったが、意外にも試合場には雨は降っておらず、曇っているだけ。練習は9時に始まり、試合は10時に始まる予定だったのでちょうどいいタイミングだった。車を止めて会場に向かうともうすでに10人くらいの選手がそれぞれ準備している。全員がシニア男性だということに気がつくのに時間はかからなかった。みんな私の方をちらりと見て「なんだ、このアジア人の女は。」と思っているのがありありと分かる。後でわかったことであるが、このシニア・ゲームに毎年やってくる人たちはお互いによく知っていて、「新顔」はしばらくは「部外者」扱いなのである。とりあえず、端の目立たないところを探してケースから部品を取り出して弓を組み立て始めると、「ふ~ん。あいつも試合に来てるんだ。」と納得したのか、みなそれぞれ自分の準備にもどる。
しばらくすると、役員や審判がやってきて登録が始まる。私は10的ある中の1番的だ。的を見てまず思ったのは「でかい!!」アーチェリーはいろんな大きさや種類の的を競技によって使いわけるのだが、普通60m、70m、90mで使う的を、American 900という形式で60ヤード(54m)、50ヤード(45m)、そして40ヤード(36m)から射つのである。これはまさに目のよく見えない老人向けである。もう老眼鏡がないと本を読めない私にとってはうれしい。
9時の練習開始時に選手たちはそれぞれ自分の的近くに集まってきた。同的はみな50台の男性。ベアボー(昔インディアンが使っていた一番シンプルな弓)のロブ、オリンピックリカーブ(オリンピックで使われる照準機などもついた近代的な弓)の弓を射ち地元の子供たちにもアーチェリーを教えているトム、同じくオリンピックリカーブでスコットランドのキルト(どう見てもスカートなんですが)をはいているスチュアート、とオリンピックリカーブの私。選手は全員で38名。その中で女性は3人。オリンピックリカーブ部門の女性は私一人。(射つ前から優勝なのだ。)注意してみると、的番号が大きくなるほど年齢があがっていっているのがわかる。年令順に選手を並べているのだ。
練習時間も終わり、試合開始。その前に審判長が選手全員を前にルールを説明する。そして最後に「みなさん、ちゃんとおトイレは終わりましたか。今行きたい人いますか。あ、では待っててあげますから行ってきて下さいね。」普通は鬼のように怖い審判長がまるで老人向け観光旅行のガイドさんのようにやさしい。
試合が順調に始まり3分の1くらい行ったところで、ふと時間のたつのが早いのに気がついた。90本の矢を射つので、10時から始まったらお昼休みを入れても2時には終わるだろうと思っていたのにもう12時近いのだ。今晩はお客さんが来ると心配していた夫には4時か5時には帰ってくるからと出てきたのに!これって私の気のせい?と思って同的のスチュアートに聞いてみると「あっちのじいさんたちは計算も遅いし歩くのも遅いからね。」と自分もシニアなのを忘れてため息をついている。ふと10番的を見ると確かにまだ計算しながら矢を的から抜いている。矢が的を外れることもあるので、矢探しにも時間がかかるのである。でも、ここに来ているシニアの選手たちは本当にアーチェリーが好きなのだ。弓を引く腕がぶるぶると震え、矢が的を飛び越していってしまっても、この人たちは射ちたいのだ。年代ものの愛弓を携え、毎年やってきて若い人たちに気兼ねせずマイペースで射っているのだ。
お昼はみなそれぞれサンドイッチやらクッキーやらを出しておしゃべりしながらいただく。今年は景気が悪いから選手へのお土産が少ないとロブがぼやく。「去年なんて、Tシャツにシニア向けビタミン剤、便秘予防クッキー、保険会社のロゴ入りバッグ、日焼け止めクリームとかいろいろもらったんだけどね。今年はこのぺらぺらのTシャツだけだ。」お昼が終わった頃に無料新聞が配られた。シニア向けのコミュニティー紙で老人ホーム、クリニック、墓石、墓地の広告がびっしりと載っている。「う〜ん。」ちょっと悲しくなった。
やっと4時過ぎに試合は終わった。なぜかこの年になると、試合のあとは畑仕事をした後のような気分になる。アーチェリーはもくもくと矢を射つだけなので、このような気持ちになるのだろうか。「やれやれ、一仕事終わったよ。」って感じなのだ。
同的の者同士点数の合計を確認しあい、提出する。点数はすばやくコンピューターに入力され、順位が出てくる。最後の表彰式ではまず年長者から表彰される。90歳以上の部の参加者はいなかったが、85歳以上が1人、80歳から85歳も1人いた。88歳の最年長者部優勝のジョージがメダルを受け取ると、みな大きな拍手をして「ジョージ、今年も来れてよかったなあ~。」「来年もがんばれよな。」「みんな来年も生きてりゃいいよなあ。」などと言っている。部門は男女、5年ごとの年齢別、弓の種類別に別れているので、1位、2位、3位とほとんど全員がメダルをもらえる。私も唯一の50-55歳女性オリンピック・リカーブ部門優勝者としてメダルをもらった。同的の新しい友達たちが肩をたたいて「おめでとう」と言ってくれた。ぜったい来年も来なくてはいけない試合だなと思った。
*************
普通の試合だと、このあとは若い選手たちに片づけをまかせて、私のようなおじさんおばさんはさっさと帰り支度をするのだが、今回はそうはいかないことにすぐ気がついた。60歳、70歳のおじさんたちがえっちらこっちらと大きな的をトラックに運んでいるのである。一番若い私がさっさと帰るわけには行かない。私も的運び、最後の矢探しなどを手伝っているうちに、5時を過ぎてしまった。ちょっぴり夕暮れの気配がする中、みなそれぞれ車に荷物を入れ、「またな。」「また来年。」「運転気をつけて。」と口々にそれぞれ家路につく。「だんな怒ってるかなあ、ちょっと怖いなあ」とどきどきしながら夫に電話をかけた。「ごめん!今試合がおわったばかりでぇ〜」「え〜!!レモンがないから買ってきてもらおうと思っていたのに!ガチャン!」あんまりやさしくなくて口が悪い夫。でも、家に帰るとオードブルから自分で焼いたパン、そして夕食の準備もちゃんとしてお客様のおもてなしをしてくれていた。料理上手でアーチェリーの試合には一言も文句も言わずに送り出してくれる夫に感謝しております。はい。
2009年4月10日金曜日
イースターうさぎ
子供たちが小学校にあがって、少々ややこしくなってきたのがイースターである。クリスマスの話は筋が決まっている。基本的に北極に住むサンタさんがクリスマスイブの夜、トナカイの牽くそりに乗って全世界のよい子にプレゼントを配ってくれるのだ。ところが、イースターとなるといろいろな話が入り乱れ、子供が学校で情報交換をする年頃になると、話のつじつまをあわせるのが大変になってくるのだ。
我が家では、イースターになるとイースターバニーがやってきて、前の晩に子供たちが染めたパステルカラーの卵と自前で持ってきたチョコレートやジェリービーンをバスケットにいっぱい入れて置いて行ってくれる(ことになっている)。大きいメインのチョコレートは必ずうさぎの形をしており、小さいウズラ卵型のチョコレートを10個ずつくらい入れ、ジェリービーンはジョリーランチのものと決まっている。年によってその他のキャンディーが加わったり、うさぎのちいさいぬいぐるみがついたりする。家族全員の分がそれぞれダイニングテーブルの上に並べられるのである。
ところが、シュナイダー家ではイースターバニーはキャンディーをバスケットに入れて枕元に届けるのだが、色とりどりの卵は庭に隠す。探し損ねた卵はそのまま外で動物のえさになるか、腐るかする。ケニー家のイースターバニーはキャンディーの入ったバスケットは持ってこず、キャンディーの入ったプラスチックの卵を家の中に隠していく。正確に言えば、80個隠していくのである。捜さなくてはならない子供も大変だが、隠さなくてはならない親も大変である。小さい頃は目のつくところに置いておいたそうだが、大きくなるにつれてもう少しチャレンジがある方がいいだろうということで、テレビのうしろだとか、キッチンのキャビネットの中などに隠すことになる。そうすると、親もどこに隠したのかいちいち覚えていなくて、去年は家の間取り図を片手に隠した場所に印をつけていったそうだ。子供たちが最後の数個をなかなか捜せないでいると、おとうさんが「オーブンの中は見たの。」などとヒントを与える。ところが、知恵のついてきたおねえちゃんは「なんでおとうさんは、うさぎがどこに隠したのかわかるのよ。」と問い詰める。その上「このプラスチックの卵、去年のと同じだよ。」と言われ、おかあさんは思わず「イースターバニーも最近はリサイクルしているんだよ。」と答えたとのこと。もうそろそろイースターバニーは「幻バニー」だったということがわかってしまうんだろうな、と少し寂しげである。子供の夢を守ろうとする美しい親の愛。
で、これほど親の愛の美しくない我が家の去年の状況は悲惨であった。「まだまだイースターは先の話」(カソリックおよびプロテスタントのイースターは陰暦によっているので毎年3月か4月の日曜日とはわかっていても、はっきりした日はカレンダーを確認しないとわからない。これって、わたしのいいわけ?)、「キャンディーはぎりぎりに底値で買うから」、「バスケットは去年のをみんな取ってあるから大丈夫」とおおらかに構えていた母親の私。イースターやクリスマスなどのお祝い事の準備は200%完璧にする姑に育てられ、それは母親の仕事と思っている夫。イースターは予想に反してあっという間にやってきた。(ちなみに、去年のイースターは超早かった。)イースター前日に売り切れ寸前の白い卵を2ダース手に入れ、(この辺の卵はみな茶色いのが多い。)子供たちが卵をきれいに染め、チョコレートのウサギはみつけたものの、卵チョコやジェリーランチのいつものジェリービーンは近所のスーパーにはない。でもまあ、今晩早く子供たちを寝かしつけたその後で、近くのドラッグストアーへ走っていってもう少しキャンディーを買い集め、かごを探し出して準備をすればいいかとのんびり構えていたのが間違いであった。
その夜、夕食の時にワインを飲んでなぜかそのまま夫とスクラブルというゲームで対戦することになった。私たちのスクラブル対戦は大体1時間から1時間半かかる。二人とも真剣になってしまうので、ののしりあい小突きあいなどかなり醜い対戦になるのが常である。子供たちは心得たもので、自分たちだけでちゃんとお風呂に入り、歯を磨き、ベッドに入ってしまった。その夜も激しい接戦のあと二人とも疲れ果て、翌日のイースターのことなどすっかり忘れてしまったのである。ふとんに入って仲直りをし、ふと気がつくと窓からは暖かい日差しが差し込んできていて、娘がまくらもとに座っている。(私たち夫婦はフトンでねている。)「ねえ、ママ。イースターバニーが来るのって今日?それとも明日?」いつの間にかイースターサンデー当日の朝になってしまっていたのである!やばい!「うーん。明日の朝じゃないのかなあ。ちょっと忘れたよ。それよりお部屋に戻ってお着替えしてきなさい。」娘が部屋に入るのを見届けると、私は手早くT-シャツを着て下へ飛んで行った。ウサギチョコを引っ張り出し、値段のシールをはがす。去年とっておいたかごを探したものの、娘のピンクのかごしか見つからない。今年は家族全員の分がひとつのかごに入っていることにしよう。でもジェリービーンはないし、ほかにキャンディー類は買っていない。どうしよう!そうだ!去年のハローウイーンの時に買ったキャンディーがまだ残っている!小さいチョコレートバーやキャンディーが個々包装されているのは、イースターキャンディーとそう変わりはない。包み紙の色がパステルカラーではなく、オレンジや黒なのが少し気になるが、キャンディーに目が行って気がつかないだろうと高をくくり、鷲づかみでバスケットにたっぷり入れた。その上にウサギチョコを2匹ときれいに染められている卵を4個のせるとそれなりにイースターバスケットに見えるではないか!それをダイニングテーブルの真ん中に置いて、あたふたとベッドルームにもどって布団の中に飛び込んだ。これを娘が着替えている間にしたのだから超特急である。服にうるさいおしゃれな娘さまさまである。まもなく、娘が階段をとんとんと下りていく音が聞こえてきた。そのあとすぐに、今度はどんどんどんどんと階段を駆け上る足音が聞こえてきた。
娘「ママー。イースターバニーが来たよ!妙ちゃんだけにキャンディーおいていってくれたよ!」(ここで、息子が起きてきた。)
息子「え。バスケットはひとつしかなかったの?」
娘「うん。妙ちゃんのピンクのバスケットだけだよ。」
私「それはきっとウサギさんが他のバスケット見つけられなかったから、みんなの分を妙ちゃんのバスケットに入れたんだよ。だからみんなとシェアしてね。」(ここで、夫のけりが私のおしりに入る。)
娘「でも、なんでちゃんとみんなの分のバスケットを持ってこないの?」
私「うーん。それわあ、、、ほらあ。ウサギは小さいでしょ。だから何十個もキャンディーの入ったバスケット持ち歩けないんだよ。だから、家の中にあるものを見つけてキャンディーを入れてくれるんだよ。」(ここで、娘と息子はバスケットをひっくり返してキャンディーを数え始めている。)
息子「ふーん。だから、うちにあったハローウイーンキャンディーをリサイクルして使ったんだ。」(ここで、夫のけりが再び私のおしりに入る。)
私「、、、、」
子供たちが去った後、私は夫にけなされ、子供の報告を電話で聞いた姑からは「イースターバニーの夢をこわす悪い母親」のレッテルをはられた。
それでも子供たちはなんとか立ち直ってくれた。今年は母親の私はイースターの1ヶ月前にキャンディー、チョコレートなどちゃんとそろえた。その上、姑が去年みたいにならないようにとキャンディーをごっそり送ってくれたので、キャンディーは10人分くらいは軽くある。去年の事情を知っている友人たちも「イースターはこの日曜日だよ。イースター・バスケットの用意できたの。」と気にかけていてくれる。大丈夫。今年は準備万端です。
余談ですが、ユダヤ暦を使うギリシア正教のイースターは4年に一度カソリックとプロテスタントのイースターと重なりますが、その他の年は数週間遅くお祝いします。だから、彼らはイースターキャンディーをセールで安く買えるんですよね。うらやましい。
我が家では、イースターになるとイースターバニーがやってきて、前の晩に子供たちが染めたパステルカラーの卵と自前で持ってきたチョコレートやジェリービーンをバスケットにいっぱい入れて置いて行ってくれる(ことになっている)。大きいメインのチョコレートは必ずうさぎの形をしており、小さいウズラ卵型のチョコレートを10個ずつくらい入れ、ジェリービーンはジョリーランチのものと決まっている。年によってその他のキャンディーが加わったり、うさぎのちいさいぬいぐるみがついたりする。家族全員の分がそれぞれダイニングテーブルの上に並べられるのである。
ところが、シュナイダー家ではイースターバニーはキャンディーをバスケットに入れて枕元に届けるのだが、色とりどりの卵は庭に隠す。探し損ねた卵はそのまま外で動物のえさになるか、腐るかする。ケニー家のイースターバニーはキャンディーの入ったバスケットは持ってこず、キャンディーの入ったプラスチックの卵を家の中に隠していく。正確に言えば、80個隠していくのである。捜さなくてはならない子供も大変だが、隠さなくてはならない親も大変である。小さい頃は目のつくところに置いておいたそうだが、大きくなるにつれてもう少しチャレンジがある方がいいだろうということで、テレビのうしろだとか、キッチンのキャビネットの中などに隠すことになる。そうすると、親もどこに隠したのかいちいち覚えていなくて、去年は家の間取り図を片手に隠した場所に印をつけていったそうだ。子供たちが最後の数個をなかなか捜せないでいると、おとうさんが「オーブンの中は見たの。」などとヒントを与える。ところが、知恵のついてきたおねえちゃんは「なんでおとうさんは、うさぎがどこに隠したのかわかるのよ。」と問い詰める。その上「このプラスチックの卵、去年のと同じだよ。」と言われ、おかあさんは思わず「イースターバニーも最近はリサイクルしているんだよ。」と答えたとのこと。もうそろそろイースターバニーは「幻バニー」だったということがわかってしまうんだろうな、と少し寂しげである。子供の夢を守ろうとする美しい親の愛。
で、これほど親の愛の美しくない我が家の去年の状況は悲惨であった。「まだまだイースターは先の話」(カソリックおよびプロテスタントのイースターは陰暦によっているので毎年3月か4月の日曜日とはわかっていても、はっきりした日はカレンダーを確認しないとわからない。これって、わたしのいいわけ?)、「キャンディーはぎりぎりに底値で買うから」、「バスケットは去年のをみんな取ってあるから大丈夫」とおおらかに構えていた母親の私。イースターやクリスマスなどのお祝い事の準備は200%完璧にする姑に育てられ、それは母親の仕事と思っている夫。イースターは予想に反してあっという間にやってきた。(ちなみに、去年のイースターは超早かった。)イースター前日に売り切れ寸前の白い卵を2ダース手に入れ、(この辺の卵はみな茶色いのが多い。)子供たちが卵をきれいに染め、チョコレートのウサギはみつけたものの、卵チョコやジェリーランチのいつものジェリービーンは近所のスーパーにはない。でもまあ、今晩早く子供たちを寝かしつけたその後で、近くのドラッグストアーへ走っていってもう少しキャンディーを買い集め、かごを探し出して準備をすればいいかとのんびり構えていたのが間違いであった。
その夜、夕食の時にワインを飲んでなぜかそのまま夫とスクラブルというゲームで対戦することになった。私たちのスクラブル対戦は大体1時間から1時間半かかる。二人とも真剣になってしまうので、ののしりあい小突きあいなどかなり醜い対戦になるのが常である。子供たちは心得たもので、自分たちだけでちゃんとお風呂に入り、歯を磨き、ベッドに入ってしまった。その夜も激しい接戦のあと二人とも疲れ果て、翌日のイースターのことなどすっかり忘れてしまったのである。ふとんに入って仲直りをし、ふと気がつくと窓からは暖かい日差しが差し込んできていて、娘がまくらもとに座っている。(私たち夫婦はフトンでねている。)「ねえ、ママ。イースターバニーが来るのって今日?それとも明日?」いつの間にかイースターサンデー当日の朝になってしまっていたのである!やばい!「うーん。明日の朝じゃないのかなあ。ちょっと忘れたよ。それよりお部屋に戻ってお着替えしてきなさい。」娘が部屋に入るのを見届けると、私は手早くT-シャツを着て下へ飛んで行った。ウサギチョコを引っ張り出し、値段のシールをはがす。去年とっておいたかごを探したものの、娘のピンクのかごしか見つからない。今年は家族全員の分がひとつのかごに入っていることにしよう。でもジェリービーンはないし、ほかにキャンディー類は買っていない。どうしよう!そうだ!去年のハローウイーンの時に買ったキャンディーがまだ残っている!小さいチョコレートバーやキャンディーが個々包装されているのは、イースターキャンディーとそう変わりはない。包み紙の色がパステルカラーではなく、オレンジや黒なのが少し気になるが、キャンディーに目が行って気がつかないだろうと高をくくり、鷲づかみでバスケットにたっぷり入れた。その上にウサギチョコを2匹ときれいに染められている卵を4個のせるとそれなりにイースターバスケットに見えるではないか!それをダイニングテーブルの真ん中に置いて、あたふたとベッドルームにもどって布団の中に飛び込んだ。これを娘が着替えている間にしたのだから超特急である。服にうるさいおしゃれな娘さまさまである。まもなく、娘が階段をとんとんと下りていく音が聞こえてきた。そのあとすぐに、今度はどんどんどんどんと階段を駆け上る足音が聞こえてきた。
娘「ママー。イースターバニーが来たよ!妙ちゃんだけにキャンディーおいていってくれたよ!」(ここで、息子が起きてきた。)
息子「え。バスケットはひとつしかなかったの?」
娘「うん。妙ちゃんのピンクのバスケットだけだよ。」
私「それはきっとウサギさんが他のバスケット見つけられなかったから、みんなの分を妙ちゃんのバスケットに入れたんだよ。だからみんなとシェアしてね。」(ここで、夫のけりが私のおしりに入る。)
娘「でも、なんでちゃんとみんなの分のバスケットを持ってこないの?」
私「うーん。それわあ、、、ほらあ。ウサギは小さいでしょ。だから何十個もキャンディーの入ったバスケット持ち歩けないんだよ。だから、家の中にあるものを見つけてキャンディーを入れてくれるんだよ。」(ここで、娘と息子はバスケットをひっくり返してキャンディーを数え始めている。)
息子「ふーん。だから、うちにあったハローウイーンキャンディーをリサイクルして使ったんだ。」(ここで、夫のけりが再び私のおしりに入る。)
私「、、、、」
子供たちが去った後、私は夫にけなされ、子供の報告を電話で聞いた姑からは「イースターバニーの夢をこわす悪い母親」のレッテルをはられた。
それでも子供たちはなんとか立ち直ってくれた。今年は母親の私はイースターの1ヶ月前にキャンディー、チョコレートなどちゃんとそろえた。その上、姑が去年みたいにならないようにとキャンディーをごっそり送ってくれたので、キャンディーは10人分くらいは軽くある。去年の事情を知っている友人たちも「イースターはこの日曜日だよ。イースター・バスケットの用意できたの。」と気にかけていてくれる。大丈夫。今年は準備万端です。
余談ですが、ユダヤ暦を使うギリシア正教のイースターは4年に一度カソリックとプロテスタントのイースターと重なりますが、その他の年は数週間遅くお祝いします。だから、彼らはイースターキャンディーをセールで安く買えるんですよね。うらやましい。
2009年4月7日火曜日
The Big Night
日本には四季のほかに二十四節気というのがある。自然の小さな変化にも季節の移り変わりを感じる日本らしい美しいコンセプトだと思う。啓蟄(けいちつ)はその二十四節気の1つでだいたい3月6日ごろにおとずれる。科学的定義によれば、太陽黄経が345度のときである。「啓蟄」は大地が暖まり冬眠をしていた虫が穴から出てくるころという意味の漢字である。
北海道と同じくらいの緯度に位置するボストンのノースショアでは3月下旬から4月上旬にやっと雪が雨に変わり、道の横に積み上げられていた雪も解け始める。10年ほど前のエイプリルフールデー(4月1日)の大雪を経験してから、私も毎年4月1日がすぎるまでは雪かきの道具やスノーブーツ、ダウンジャケットはしまわない。

確実に雪が雨に変わるころになると子供たちが“The Big Night” を楽しみにする。夜通し40度以上の気温が保たれる大雨の夜に”The Big Night” は起こる。森の土の中や枯葉の下で冬眠していた蛙やいもり(サラマンダー)などの両生類が起きだしてきて近くの池や沼へ大移動する夜のことだ。このころには大移動する両生類たちを「交通事故」から守るためにあちこちの道には「両生類横断―注意」のサインが掲げられる。
春一番先におきだしてくるのはSpring Peeperと呼ばれる小さな蛙である。1-4センチくらいの大きさで、せなかにXのマークがあるのが特徴である。池でピーピーとメスを呼び寄せる声が聞こえてくると春がそこまで来ていることがわかる。子供たちにかわいがられているこのかわいい蛙は残念ながら他のおなかをすかせた爬虫類、大きな蛙や亀のえさになる。でも、ご心配なく。Spring Peeper は1匹につき卵を900個くらい産み、遅く這い出してくるほかの両生類やかめたちのために毎年しっかり繁殖しています。
もうひとつ子供たちに人気があるのはSpotted Salamander とよばれるいもりみたいな動物である。私の目から見れば皮膚がぬるぬるしていてちょっと鳥肌が立つのだが、子供たちに言わせると目がくりくりしていてかわいいとのこと。それにからだの点々模様もなんとなくユーモラス。
そこで、Big Night になると予想される夜に町の子供たちは繰り出してくるのである。
日が沈むとそれぞれ割り当てられた主要拠点で小学5年生たちが理科のプロジェクトのために両生類の種類を確認し数を数える。このデータは毎年専門家によって集積され、自然生態の健康状況と環境保全の政策を決めるのに役立てられている。低学年の子供たちは道路を横切ろうとしている蛙やいもりたちを車に轢かれる前に反対側に運んで行ってやるのが仕事である。これは自然生態観測と保護のために、毎年受け継がれていっている習慣である。
今年私の息子と娘は「両生類横断介助」をする年になった。毎日インターネットで降雨率と予想気温をチェックする。横断介助をする道の下見に行く。どこに沼があるのかをあらかじめ調べておくのである。先生からも「今晩かもしれません。」と連絡メールが入るころになるとテンションはますます高まる。息子の頭の中では両生類がぞろぞろ、うようよと道路を横断しているのが私にもまるで昔の16ミリの映画を観るようにわかる。息子は「マサチューセッツ州の両生類」というポスターの写真にじっと見入り、もうボーっとしてエクスタシーの世界である。
「両生類横断介助」と一口に言っても、それなりの準備が必要である。横断が活発化するのは日が暮れてからなので、まず懐中電灯が必要である。それもできれば頭につけて両手が自由になる型がいい。そして雨の降る中の介助なので雨靴とレインコートを着る。できれば黄色など目立つ色か反射板がついているものの方が安全である。小さいビーチバケツを持っていくと、何匹か同じ方向に渡ろうとしているかえるたちをいっぺんに運べるので効率がいい。中には反対方向に向かうかえるがいるそうだが、それも理由があってのことらしいので、向かっている方向に連れて行ってあげなくてはならないそうだ。あとは透明のビニール袋にいれたカメラがあれば万全。ただ、付き添う親は両生類横断介助をする子供たちの方が車に轢かれないように気をつけなくてはならないので、写真を撮ることに夢中になってはいけない。
「いよいよ今晩か?」というしとしと雨の降る日の夕方、私と子供たちはしっかり武装し、懐中電灯の電池も取替え、日没30分前に目的地に着いた。気温もまだ40度以上を保っている。道路わきに車を止めて、沼を確認する。気の早いSpring Peeper が何匹かすでに沼に到着していてピーピー鳴き始めている。もう一台車が50mほど離れたところに止まり、やはり2-3人子供たちが降りてきて様子を伺っている。むこうは全員がバケツを持っている。しばらく森側を歩き、何か動きをキャッチしようとするが、何にも見つからない。じりじりと時が過ぎるのを待つ。やっと日が沈み、あたりがやみに包まれた。さあいよいよか!と心は奮い立つものの、何も出てこないし、何も起こらない。そうこうするうちに気温がぐんぐん下がってきて、ちょっと寒いなあと思って車の気温計を見ると華氏30度台になってしまっているのだ。しばらく待ったものの、あきらめて帰ることにした。両生類たちは今晩気温が下がるのを察知していたのだろうか。その夜は結局30度台の寒い夜になった。
空振りの夜のあと、私は少し気が抜けてしまったが、子供たちは相変わらず毎日天気を気にして雨の日には今晩の予想気温は何度なのとたずねてくる。たいして雨も降らないまま日が過ぎ、私は4月の1週目に日本へ出張のために旅立った。
日本に着いた次の日の朝、ホテルに電話がかかってきた。息子の興奮した声が飛び込んできた。「今晩がBig Night だよ!いっぱいいっぱい蛙が道を渡ってるよ!」その後ろではSpring Peeper がぴーぴーと大合唱している。「ええ!?今晩だったのか!ちゃんとバケツ持っていってるの?」「うん!じゃね。ツー、、、、、」「う。」(“I love you” を期待してたのに。)その日は「息子に必要とされていない母親」を再び認識されられ、Big Night を逃してしまったことで少し落ち込んでしまった。
5年ぶりの京都は暖かい春の陽気でタクシーから見る町もいきいきと見える。満開の桜もちらほら見える。目的地に着いたもののまだ時間があったので、すぐ向かいにある御所を散歩することにした。砂利道を少し歩くと急に目の前にいろいろな密度の桜色が広がった。まるでそこだけが別世界、秘密の花園みたいなのだ。限りなく白に近い淡い桜色、娘のほっぺたを思い出させるような若々しい健康なピンク、小さな池に漂う無数の桜色、桜色、桜色。耳を両手でふさいで上を見上げると周りにいる人間はみないなくなり、青い空と桜の花びらとちらちらと見える太陽の光だけが見える。自然は美しいなあ、日本は美しいなあとしみじみ思う。
今年はBig Night は逃してしまったが、20年ぶりに日本の春をしっかりと体と心に取り込んでボストンへの帰路についた。家に帰って見せてもらったちょっと暗い写真にはちいさなかえるがたくさん写っていた。そして息子が手のひらにかえるをのせて満身の笑みを浮かべている写真もあった。「来年はママもいっしょにいこうね。」とやさしいことを言う息子。「うん。いっしょにいこう。」
北海道と同じくらいの緯度に位置するボストンのノースショアでは3月下旬から4月上旬にやっと雪が雨に変わり、道の横に積み上げられていた雪も解け始める。10年ほど前のエイプリルフールデー(4月1日)の大雪を経験してから、私も毎年4月1日がすぎるまでは雪かきの道具やスノーブーツ、ダウンジャケットはしまわない。

確実に雪が雨に変わるころになると子供たちが“The Big Night” を楽しみにする。夜通し40度以上の気温が保たれる大雨の夜に”The Big Night” は起こる。森の土の中や枯葉の下で冬眠していた蛙やいもり(サラマンダー)などの両生類が起きだしてきて近くの池や沼へ大移動する夜のことだ。このころには大移動する両生類たちを「交通事故」から守るためにあちこちの道には「両生類横断―注意」のサインが掲げられる。
春一番先におきだしてくるのはSpring Peeperと呼ばれる小さな蛙である。1-4センチくらいの大きさで、せなかにXのマークがあるのが特徴である。池でピーピーとメスを呼び寄せる声が聞こえてくると春がそこまで来ていることがわかる。子供たちにかわいがられているこのかわいい蛙は残念ながら他のおなかをすかせた爬虫類、大きな蛙や亀のえさになる。でも、ご心配なく。Spring Peeper は1匹につき卵を900個くらい産み、遅く這い出してくるほかの両生類やかめたちのために毎年しっかり繁殖しています。
もうひとつ子供たちに人気があるのはSpotted Salamander とよばれるいもりみたいな動物である。私の目から見れば皮膚がぬるぬるしていてちょっと鳥肌が立つのだが、子供たちに言わせると目がくりくりしていてかわいいとのこと。それにからだの点々模様もなんとなくユーモラス。
そこで、Big Night になると予想される夜に町の子供たちは繰り出してくるのである。
日が沈むとそれぞれ割り当てられた主要拠点で小学5年生たちが理科のプロジェクトのために両生類の種類を確認し数を数える。このデータは毎年専門家によって集積され、自然生態の健康状況と環境保全の政策を決めるのに役立てられている。低学年の子供たちは道路を横切ろうとしている蛙やいもりたちを車に轢かれる前に反対側に運んで行ってやるのが仕事である。これは自然生態観測と保護のために、毎年受け継がれていっている習慣である。
今年私の息子と娘は「両生類横断介助」をする年になった。毎日インターネットで降雨率と予想気温をチェックする。横断介助をする道の下見に行く。どこに沼があるのかをあらかじめ調べておくのである。先生からも「今晩かもしれません。」と連絡メールが入るころになるとテンションはますます高まる。息子の頭の中では両生類がぞろぞろ、うようよと道路を横断しているのが私にもまるで昔の16ミリの映画を観るようにわかる。息子は「マサチューセッツ州の両生類」というポスターの写真にじっと見入り、もうボーっとしてエクスタシーの世界である。
「両生類横断介助」と一口に言っても、それなりの準備が必要である。横断が活発化するのは日が暮れてからなので、まず懐中電灯が必要である。それもできれば頭につけて両手が自由になる型がいい。そして雨の降る中の介助なので雨靴とレインコートを着る。できれば黄色など目立つ色か反射板がついているものの方が安全である。小さいビーチバケツを持っていくと、何匹か同じ方向に渡ろうとしているかえるたちをいっぺんに運べるので効率がいい。中には反対方向に向かうかえるがいるそうだが、それも理由があってのことらしいので、向かっている方向に連れて行ってあげなくてはならないそうだ。あとは透明のビニール袋にいれたカメラがあれば万全。ただ、付き添う親は両生類横断介助をする子供たちの方が車に轢かれないように気をつけなくてはならないので、写真を撮ることに夢中になってはいけない。
「いよいよ今晩か?」というしとしと雨の降る日の夕方、私と子供たちはしっかり武装し、懐中電灯の電池も取替え、日没30分前に目的地に着いた。気温もまだ40度以上を保っている。道路わきに車を止めて、沼を確認する。気の早いSpring Peeper が何匹かすでに沼に到着していてピーピー鳴き始めている。もう一台車が50mほど離れたところに止まり、やはり2-3人子供たちが降りてきて様子を伺っている。むこうは全員がバケツを持っている。しばらく森側を歩き、何か動きをキャッチしようとするが、何にも見つからない。じりじりと時が過ぎるのを待つ。やっと日が沈み、あたりがやみに包まれた。さあいよいよか!と心は奮い立つものの、何も出てこないし、何も起こらない。そうこうするうちに気温がぐんぐん下がってきて、ちょっと寒いなあと思って車の気温計を見ると華氏30度台になってしまっているのだ。しばらく待ったものの、あきらめて帰ることにした。両生類たちは今晩気温が下がるのを察知していたのだろうか。その夜は結局30度台の寒い夜になった。
空振りの夜のあと、私は少し気が抜けてしまったが、子供たちは相変わらず毎日天気を気にして雨の日には今晩の予想気温は何度なのとたずねてくる。たいして雨も降らないまま日が過ぎ、私は4月の1週目に日本へ出張のために旅立った。
日本に着いた次の日の朝、ホテルに電話がかかってきた。息子の興奮した声が飛び込んできた。「今晩がBig Night だよ!いっぱいいっぱい蛙が道を渡ってるよ!」その後ろではSpring Peeper がぴーぴーと大合唱している。「ええ!?今晩だったのか!ちゃんとバケツ持っていってるの?」「うん!じゃね。ツー、、、、、」「う。」(“I love you” を期待してたのに。)その日は「息子に必要とされていない母親」を再び認識されられ、Big Night を逃してしまったことで少し落ち込んでしまった。
5年ぶりの京都は暖かい春の陽気でタクシーから見る町もいきいきと見える。満開の桜もちらほら見える。目的地に着いたもののまだ時間があったので、すぐ向かいにある御所を散歩することにした。砂利道を少し歩くと急に目の前にいろいろな密度の桜色が広がった。まるでそこだけが別世界、秘密の花園みたいなのだ。限りなく白に近い淡い桜色、娘のほっぺたを思い出させるような若々しい健康なピンク、小さな池に漂う無数の桜色、桜色、桜色。耳を両手でふさいで上を見上げると周りにいる人間はみないなくなり、青い空と桜の花びらとちらちらと見える太陽の光だけが見える。自然は美しいなあ、日本は美しいなあとしみじみ思う。
今年はBig Night は逃してしまったが、20年ぶりに日本の春をしっかりと体と心に取り込んでボストンへの帰路についた。家に帰って見せてもらったちょっと暗い写真にはちいさなかえるがたくさん写っていた。そして息子が手のひらにかえるをのせて満身の笑みを浮かべている写真もあった。「来年はママもいっしょにいこうね。」とやさしいことを言う息子。「うん。いっしょにいこう。」
2009年3月26日木曜日
アーチェリー全国大会熟女(!?)部門優勝!

二月にある全国インドア大会はおかあさんの誕生日のすぐ後。ということで、おかあさんこと私は今年はシニアからマスターズ部門にあがった。そして何とオリンピック・リカーブ「熟女」部門で優勝してしまったのだ。この大会は全国各地11箇所で2月から3月にかけて行われ、結果の集計が先週正式に発表された。日本のリカーブアーチェリー界に比べると全体のレベルは低いし、参加人数も少ないのだが、でもやっぱりうれしい。
私は大学生のころに1年だけアーチェリーをしていた。その後は忙しいし、近くに練習するところもなかったので、ご無沙汰していた。ところが、2年まえのチャーリーと妙ちゃんの7歳の誕生日に、おとうさんがおもちゃのアーチェリーセットを買ってくれた。でも、そのセットには指を守るフィンガータブや腕を守るアームガードなどが入っていなかった。それに矢も3本しか入っておらず、何回か遊んでいるうちに壊れてしまったのだ。そこで、私はグーグルでどこか近くにアーチェリー屋さんがないかどうか探したところ、30分ほど行った隣のニューハンプチャー州の町に一軒あるのを見つけた。
私はある日の午後、仕事を少しさぼって必要な物を手に入れるべく、そのお店ビッグ・アルズ・アーチェリーを探しに行った。お店のあるシーブルックの町は、少しうらびれていて寂しげな町。中央道りにお店はあるはずなのに、なかなか見つからない。何度か行ったり来たりして、やっとがらくた屋さんの裏にあるのを見つけた。窓は薄汚れて中は見えないが、一応アーチェリーメーカーのステッカーが窓にべたべた貼ってあるので、確かにここなのだ。本当にお店やっているのと少し不安に思いつつ、ドアを開けると中は薄暗い倉庫のような場所。床、壁、天井は木がむき出しの中で目に飛び込んできたのは迷彩色。迷彩色の弓、迷彩色の矢、迷彩色のブーツ、ジャケット、ズボン、帽子、迷彩色のバッグ、迷彩色のテント。
しばらく入り口近くで、目当ての物はどこにあるのかと店内を少し見回すと、これまた年代もののガラスカウンターの後ろにちんまりとすわっているおじさんが目に入った。私が「ハロー」というと、ちらと私を見て「おう」と無愛想に言って、また自分の手元に目を落とした。明らかに私を見て「よそ者侵入」の警告が体中から発散されている。あとで少しずつ分かったことなのだが、そもそもこの店には女性はほとんど来ない。その上、白人以外を見たことがない。自分で自分のことを「レッド・ネック」と呼ぶ白人男性が店員の100%、そしてお客さんの99%をしめているのだ。(あとの1%は私と何人かの子供たち)
で、このときは隣のガラクタ屋に来た中国人の女が迷い込んできた、くらいに思っていたらしい。店員は私のことを全く無視するフリをするので、私はかえって気が楽になってあちこち見て回ることが出来た。
ここで気がついたのは、このアーチェリー屋さんは弓矢で狩りをする人向けのお店だということである。すべての物が迷彩色であるのと、弓が数本を除いてすべてコンパウンドボウという滑車のついている猟に使われる弓であることから分かる。日本では猟銃で狩りはできても、弓矢では狩りはできない。だから、日本でアーチェリーといえば、スポーツなのである。でも、アメリカでは弓矢は立派な猟の道具である。特に、あまりお金に余裕のない人にとって、猟銃ほどはお金がかからず、秋口の鹿狩りの季節に鹿を1−2頭しとめれば冬のお肉はもう買わなくてもいいというありがたい道具なのだ。
お店の掲示板に、しとめた鹿や七面鳥、くま、ムースなどといっしょに誇らしげに写っているのはきっとお得意さんたちなのだろう。やっと隅の方の壁際に探していたフィンガータブとアームガードを見つけた。でも、弓の弦を張る時に使うT定規が見当たらない。そこで、カウンターの後ろのおじさんにきいてみようと彼に近づいて行った。「あの〜。T定規がほしいんですけど。」「え?なかったかなあ。取り寄せないとだめかもなあ。君、アーチェリーするの?」「昔ちょっとだけかじったんだけれどもやめました。でも、こどもたちに教えようと思って。」「へえ、そうなんだ。」それからはどこに住んでいるの(同じ町に住んでいることが判明)、どこ出身なの(アジア人は好きだと判明)、仕事は何しているの(彼は昔教師だったことが判明)、などなど延々と1時間以上話し込んでしまった。そのあげく「せっかくだから君ももう一回アーチェリー始めなよ。ほら、ここにある木の弓は$100だよ。しばらくこれを射ってみなよ。いらなかったら買い戻してあげるから。」というセールスピッチに負けて自分用の弓も買ってしまった。それから再びアーチェリーにのめり込んでしまったのである。不思議なもので、弓を持つと体がまだ射ち方を覚えていた。
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ローカル紙で全国優勝のニュースを取り上げることになったとき、私は、「ちょこっとどこか隅っこにでも載せてくれるのかなあ~」と思っていたのだが、なんとスポーツ欄の第一ページ、それもでかでかと出たのでびっくり!本文中何回も年齢を持ち出してくるものだから、町中の人間が私の年を知ってしまった。さっそく、学校からお話とデモンストレーションをしてほしい、知り合いの女性から教えて欲しいとリクエストが来ている。おかあさんはいつも「アーチェリーの楽しさをたくさんの人に知ってもらいたい」と思っているので、これを機会に少し教えるのもいいかもと思ってます。
記事はこちら。http://www.wickedlocal.com/ipswich/homepage/x1525910221/Local-resident-wins-national-archery-championship-in-division
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